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  • 2012.12.01 Saturday
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帰神法滝行 【伊勢神宮で岩笛を授かる】

岩笛
  (川島金山の秘蔵せる岩笛)

このところ滝行気合法に関する問い合わせが多い。
先日の御嶽山:七代之瀧での滝行気合法の記事をご覧になった為であろう。僕の体験的な理屈からすると気合の訓練は滝行が一番良い。必死の気合を掛けないと心臓麻痺にでもなってしまうからだ。本気の気合が自動的にできるわけである。

滝行というものは、気合法の訓練だけが効用ではない。潜在意識の使い方、浄化、深い瞑想の力(禅定)を体得するのに土台となるものだ。滝行というものは密教や霊術体得に非常に効果的なのである。

いわゆる霊学というものがある。野口晴哉先生の師匠:松本道別師(まつもとちわき)は「霊学講座」という著作を遺しているが、この霊学と言う言葉は、復古神道の一つである本田親徳大人(ほんだちかあつうし)の学統から来ている。本田大人は、三大皇学というものを中興した人物とされる。少し霊学・霊術を齧ると「鎮魂帰神法」という語に出くわす。正確には鎮魂法・帰神術というのであるが、源は太古から皇室にてあったものという。

あの三島由紀夫が物した「英霊の声」に帰神法を施行しているシーンがある。非常に臨場感があり、実際に帰神法の現場を見たのではないかとさえ思える。この小説でも(現実にもそうなのだが)岩笛を鳴らす場面がある。帰神法を施行するには、審神者(サニハ)が居なければならない。本田師直系の法系では、瀧行などはやらない。しかし松本道別師は瀧場で訓練をしたのである。これはやってみればわかることだ。

滝行を続けていると、あるとき岩笛を授かる。これは本当に自然に授かるのだ。岩笛には吹奏に仕方に秘伝があり、「幽ー、幽ー」「ヒフミヨイムナヤコト」などを発声しながらやるということがある。霊夢で在り処を知らされたり、啓示を受ける等いろいろだ。

僕の場合は、いまから12年程前に伊勢神宮参拝の折に授かった。伊勢神宮:外宮(げぐう)の土之宮のご神前でだ。ここには、周辺の土地神である大土御親神(おおつちみおやのかみ)が奉祀されている。白いやや三角の生き石で金色の入りたる岩笛だ。

滝行を1000回以上行じ、功成ったので彼の世界から授けられたものだと思う。滝行における道しるべ、過程を述べるために、この事実をお伝えするわけである。例の御嶽山〜大岳山全山で岩笛が出る処が一箇所だけあるという。このことは松本道別翁が述べていることだ。そのためには大岳山神社まで参拝の行をしなければならない。大岳山神社まで参拝にゆかないと授からないと言うのだ。滝行気合法の修練会を通じて、岩笛がご一同に授かるようになったとき、真の意味で霊術が復興されたと言えよう。僕は本気でそのことを念願している。


大熊光山著 【光山相法】 無くて七癖

 人間『無くて七癖』と言います。どんなに偉い人でも、完全な人間などいません。不完全な者同士が共存しているからこそ、協力もあり競争もあり、物事は発展してゆくのでしょう。あるいは良くないことも起きるのでしょう。

野中操法や整体操法のなかに『人心看破の法』というものが、特別にあるものではないが、僕は個人的に「相法」というものを趣味にしている。これは好きなことでもある。プロフィールに「趣味:相法」と僕は書いているが、これは間違いではない。操法ではなく相法だ。

相法とは何かと言うと、人相をはじめとした観相のことだ。
「黙って座れば、ピタリと当たる!」なんていうのは、なかなか名コピーだが、これは桜井大路先生という方のところで云われていたことだ。八木先生などの名人もいたし、こちらの相法のほうも、かつては大物がいた。

皆さんは、大熊光山という先生をご存知だろうか?
この方は『光山流観相学』というものを創始した方だ。手元に「光山相法」というものの写本複写がある。この写本には、人心看破の法が克明に記されており、読んでいると大変参考になる。

人の動作と運命の関係を論じている。こういう動作、仕草をしたら、このように考えているなど、非常に面白い。天源淘宮術(とうきゅうじゅつ)でも同じことだが、この干支はこういう性格で、こういう運命だという。こういうものを学ぶ上で、気をつけなければならないことがある。それは、専ら人を見ることに使わないことだ。自分を観るための手鏡だ、という自覚が先ずなければならない。

その上で他人様も観てあげるということだ。
例えばこういう記述がある。後学に為に記そう。
『一、 誰もいない時、自分の前で自分を戒めてくれたり、忠告してくれる者は、真情自分を思う人でございます。しかし、この場合ただ威張って叱るような言い方をするものは義理があっても人情のない人でございます。』

この写本では、面白い記述が延々とつづく。
しかし僕は、いちいち人と接するのに観相などやらない。我宇宙の真ん中にあり、対座する人も真ん中にありと思っているから、すべて自分の鏡なのだと考えている。

先の光山先生の記述からすると、善意がある人は、一対一で忠告なり、注意をしてくれるものだ。逆の場合は、どのように装うとも、何らかの意図があるものだ。己という存在や主張に執着して、常軌を逸している言動は聞く必要がない。相手に大切なことを伝えたいと思っているなら、直接会って会話するだろう。相手に本当に伝えたいことがある場合、誰でもそうするものだと思う。人に忠告する場合、意図が正確に伝わるように気をつけなければいけない。

大熊光山先生の「光山相法」の一部を野中操法研究会の皆さんにもお見せしようと思う。自分を観、人心看破の法として活用していただければ幸甚である。

御嶽山・七代の滝 【滝行気合法】 霊法を伝授す

 七代の滝
(写真は御嶽山七代の滝で帰神法修行中の川島金山)

6月7日(日)御嶽山・七代の滝において滝行気合法の伝授を行った。参加者は7名。滝行の修行の仕方の門を潜ったという事ができよう。皆さんお疲れ様でした。

参加者の皆さんは、野中操法研究会の講習会に参加された方であり、その点誘導指導は楽であった。ただ、今回の伝授は単なる気合法ではなく、霊法としての滝行であるから、九字を切る、お経真言を讀誦する、印契を組むなど、素養のない方には大変であったと思う。

本来なら前日から宿泊して行う伝授会にしないと、とても無理だと思った。滝に入る所作やどのように行の効果を高めるかなど、よく説明しなければ、後から独り行は出来ないとわかった。今回参加者の方々には、あとから写真入りテキストなり、ビデオを作成してお渡しすることを約束した。

まず綾広の滝にて、ご法楽を捧げ、願文を読む。今日の修行が無魔行満するように読経し真言を誦し祈るのである。滝前にて皆さんで気合法を少し行い、前行とした。この前行というのは、とても重要で、心を水の精に向け深い定(精神統一)に入る手助けとなる。詳しいことは直接聞いてもらいたい。

そして御嶽のロックガーデンをゆき、天狗岩付近で般若心経をあげて、七代の滝で滝行をしたのである。この七代の滝は、野口晴哉先生の師匠:松本道別翁(まつもとちわき)が、霊学講習の際、鎮魂帰神法と呼ばれる神術を伝授した霊場であり、有名な禊ぎの大家:川面凡児翁(かわつらぼんじ)も此処で神傳禊ぎの法を行っている。そういう意味で、とても由緒のある滝場なのである。

今回の伝授内容も白眉のものばかりであった。やるからには効果のない半端なものを教えても意味がない。多少のリスクはあっても、自己責任で困難を切り抜けてゆく、そういう根性が必要なのだと思う。帰神法の中でも特別な「神人結びの印」というものがあるが、今回はこれを密用した特別な滝の修行になった。

最後に御嶽神社に参拝し、お祓いを受け、山の守護神である大口真神(おおぐちまがみ)の社に参拝した。参加者一同で昼食を取り歓談した。とても楽しい修行の会であった。

参加者の一人は滝行後、手からいつもより気が出ていると語っていました。触ってもらうと確かにそうでした。「滝行気合法をやりたい」という方は大歓迎です。いつでもご連絡ください。

(下記の写真は、武州御嶽山での七代之瀧・帰神法修行の1コマ。松本道別翁が主催していた霊学道場の講師:西原正吉氏の滝行勇姿である。)
七代之瀧:帰神法

秘書 【解説 天眼氷釈】 表があれば裏がある

 物事には表と裏があるものです。
修行というものを積んできますと、そういうものがよく見えてきます。以前の記事で【秘書 天眼氷釈】というものを紹介しました。江戸末期に霞谷仙人という人物が記したものです。

和神導気、調息の法を先ず行う。息を荒くならないように修行する。つまり息の出入りを細かくし、出入りが感じられないところまで修練する。こうして数息の観に入る。更に随息観に入る。この後に天眼通(霊眼)の修行に入るのだ。

眼に関する能力、耳に関する能力、心に関する能力、すなわち身・口・意(しん・く・い)の領域において神通が生ずる。心の本性が一元化することで不可思議な能力が現出する。整体操法の創始者:野口晴哉先生は、霊眼をお持ちであった方だ。まことに稀有な方だったのである。禅の師家である山本玄峰老師なども天眼・霊眼をお持ちの方であった。

おもしろいもので物好きであるが、このような修行をしていると物事の本質と言うか、表と裏がよーく見えることがある。例えば、争いごとの背景には、それなりのことがあるのだが、注目すべきは悪意の扇動者がいることである。僕などはどちらかというと、そちらのほうに眼がゆく。

実例を示すと、日本国内の比較的、北の地域の人物がいる。表に出ずに、煽って争いごとをけしかける。意図が判らないものだから、まんまと乗ってしまうわけだが、僕には、そのようなことは通用しない。表に出て批判している人間よりも裏で煽っている人間を観る。そういう人物で操法家になろうとしている者を知っているが、眼相に裏切りの相が出ている。そのようなことは、とっくの昔に見抜いている。予測通りというところです。今頃、北の大地で大喜びしているかもしれませんが、ロクなことはありませんね(笑)

まあ、どんなことがあろうが、僕は整体操法と野中操法を中心とした各療術の統合を目指します。整体操法の創始者:野口晴哉先生は、戦後の講習会において唯一人、恥骨操法における恥骨の硬結を指摘できました。すでに野中操法は整体操法の体系の中に取り込まれ、活用されているのです。整体操法を勉強している皆さんはご承知のことですね。とっくの昔に解決済みなのです。第一健康線(下腹部)の整圧も腹部操法としての仕方がある。これは操法の締めくくりとして先人から伝承されているものです。野中豪策先生の野中操法の伝承者には、整体操法を習得していたK先生の系譜もあることを付言しておきます。ここで吉田先生だけではないことを明言しておきます。人間、自分の知らないことも沢山あると言うことです。お互い、恥をかかないようにしましょう。操法について見当違いのことをいう者は、少しは整体操法の修練でもしたらよいと思います。まあ無理でしょうがね・・・。可々大笑

天源淘宮術 【自性内観】 淘宮静座法

 以前に、淘宮静座法について書くとお約束したので、書いておこうと思う。天源淘宮術というのは、一種の修養法である。十二支というものがあるが、これらには独特の性質がある。人間は生まれる前から、ある気質というものを享けて母体に宿る。性質は、良くも悪くも出てしまう。例えば、滋宮というものがある。これは所謂、ネズミ(子)の気である。特徴は、吝嗇である。この性質が、良く出ると節約になり、悪く出るとケチん坊になるのだ。

だからこの十二支が良いとか悪いとかはないのである。
どのような心と結びつくかが、大切なことなのである。世のため人の為に善用すれば、どのような十二宮(十二支)でも、その特性にそった真価を発揮するのである。

研究会の同志の方から、あるお方が僕のことを何やら云っているかに聞いた。
僕はそのようなことには興味がない。まあ、いい宣伝をしてくれたぐらいに考えています。自分のことばかり掲示板でPRし、まるで自分だけが大家のようにいう人間はつまらない者だからだ。そういうのは相手にしなくてよいのです。以前にも云いましたが、僕は天を相手とし、同志の志を相手にする。それだけのことです。何を勘違いしているのか知りませんが、聞きたいことがあるのなら、直接電話でも何でもしてくればよい。(いまだに電話連絡のようなものは何一つありません・・・)

僕はつまらない術中に嵌まるほど愚かではないし、本を執筆中なので、そのような暇はない。馬鹿げた不毛の論議にお付き合いするのはご免だ。野中操法・健康腺療法に関する本は、今後五冊は書く予定であり、まちがいなく一冊は今年中に出る。

要は人間、腹が大切なのである。まさしく野中操法は腹部操法である。
整体操法においても腹の操法が締めくくりとなる。段位試験でも腹部の見方が出るそうだ。野中豪策先生というけれども、野中操法だけが腹部操法ではない。整体操法そのものの中にもあるわけです。

さて、淘宮術にも腹をつくる呼吸法「淘宮静座法」が伝えられている。
以下の通りだ。
(1)姿勢を正して端座し、股間をやや開き左右の親指を交互に重ね、両手を軽く膝の上に置き、左の掌の上に右の掌を重ね、左右の親指を立て其の尖端を軽く接触せしむ。静かに腹式呼吸を為し、臍下をやや前方へ張るべき状を作し、鼻の先と臍とを一直線に保つべし。
(2)姿勢を整うと同時に第一眉間を開き晴れやかなる気分にて静かに眼を開く、第二に胸を開きて呼吸の出入を好くし、第三に腹部を開大して寛容の観を作し臍下に気息を充実して一心不動を感じ腹力を絶やさざること、之を三開一充と言ふ。
(3)臍下に呼吸を調ふには、先づ口を閉じ舌を上顎に軽く着け、鼻より静かに出して呼吸の平生を保ち天気の出入を観ぶ(よろこぶ)事。

生きておれば、いろいろなことがある。生きているだけでありがたく、生きていることは奇蹟とでも言うより他ないことだと思う。人間みんな自分を認めて欲しいものだ。野口晴哉先生は「生まれた時のオギャーという声は、我アリということだ」と言われた。声を発し、子供がイタズラするのも、大人が批判するのも、細君が文句を言うも、みんな「我ここにあり」だ。できることなら、小さい我にならず、大きな我(大我)になろう。それは深い息をなしている者、腹をつくった者だけに体現できるものなのだと思う。

若き日の野口晴哉師の行場にゆく

 昨日と今日の連日、滝行をやった。
二ヶ所で、お滝をいただいた。その二ヶ所は、全然おもむきの違う行場であり、今日入滝した行場は、歴史も古く、かつて野口晴哉先生が修業した場所でもある。

整体操法を奉ずる方々は大抵、武州御岳山の「綾広の滝」を野口晴哉先生の修業した滝場であるという。先生の令夫人である野口昭子さんが、著書でそのように書いているから、そういうことになるのだと思う。しかし乍ら野口晴哉先生が御岳山で滝行をやったのは、御岳山七代の滝だと僕は考えている。根拠は、師匠の松本道別翁がそこで鎮魂帰神法の指導・伝授をしていたからである。

今日の滝場は、実にすばらしいお滝であった。行者仲間の方々と行ったのである。野口晴哉先生が若い頃に修業したその滝に行くことができたのも、まったくの偶然であった。昨日、お滝を受けたときに、件の滝について聞いてみた。明日、仲間と行くので一緒に来ますか、ということになった。僕としては、いずれそこで滝行をしようと考えていたので、これは渡りに船だ、ということで同行をお願いした。偶然というのは実に凄いものだと思う。(偶然なのかな?)

昨日と今日、滝を受けたが場所の違いなのか、受けた後の感覚が違う。滝の質というか、体の中に残る「振動」が違うのである。だが、共通しているのは滝行のあとの愉気法というのは抜群の感応力があるということだ。浸透性が違うのだ。これは自然にそうなるようだ。従って野口晴哉先生が滝行をしていたのかどうかという疑問があったのだが、間違いなくお滝をやられていた、という結論を得た。それは僕の行者としての率直な感想である。

その昔、僕は随分お滝をやった。5年間ほど秋から翌年の春までやった。しかし、この十数年間、この種の荒行はやらなかった。別の知識や法・術を探求していたのだ。だが、ここにきて再び滝行のような修業をはじめた。遠回りしたお陰で、再び開始した滝行は、様々なものを取り入れたところの修行法になったと思う。僕なりに完成度が高くなったと考えている。

ごく若い時分のようではなく、繊細に観察することができる。整体操法をやっているお陰で、気の感覚というものが、はっきりと判る。霊術のなかにも野口整体にも、深息法・気合法というものがある。気の密度を高める優れた方法である。だが、その上にもう一つ法があったのである。それが滝行である。

一言だけ云うと、滝の水は地下の霊気というものを宿している。流れ落ちくる滝の水を受けるのは、禊ぎ(みそぎ)であると同時に「霊灌ぎ(みそそぎ)」でもある。滝行をするというのは、水を通して自然の霊気と一体になることでもあるのだ。

しかし僕も随分と悠長な人間だ。自分でもつくづく呆れる。でも気がついたから、まあ善しとするか。これで「幻の整体操法」の基礎には、滝行という課程も導入されることになった。野中操法を同志としてやって行きたいという方も、滝行をやるかやらないかということを、ひとつの判断にしようかと思っているくらいである。

ゾクチェンの成就者 ナムカイ・ノルブ師と再会する

 

昨日、マハー・シッダであるナムカイ・ノルブ師と再会した。海外で教えを受けて以来5年ぶりである。マハー・シッダとは、偉大なる成就者という意味だ。チベットの太古からの教え、マハー・アティ(ゾクチェン)を成就しておられる師匠である。僕はこの先生から教えを受けて14年目になる。

この先生が日本に来るのは、6年ぶりだ。この前に来られたのが昨日のことのようである。今回の伝授会では『誕生、生そして死』のテーマで教えを説くという。この伝授は8日から10日まで続く。

僕は、整体の施術するために呼ばれたのである。前回も毎日施術をした。そして教えの象徴である『鏡(メロン)』と『修行なくして解脱の因をつくるというメンドゥップ(丸薬)』を先生は下さった。メロンは今も大切にしている。ゾクチェンの教えでは、「あるがまま(無作為)」ということを云う。鏡に何かの映像が映る。その映像にいちいち捉われない。そのために鏡そのものになる。そうすれば、映る映像に良いも悪いもない。ただ眺めておればいいのだ。

こういう境地を実現するのが、ゾクチェンの修行である。
別な言い方をすると、主体と客体の統合である。こういうことを実現する為には、師匠の境地と常にコンタクトし、更に統合する必要がある。それこそが血脈(けちみゃく)の流れに預かる方法であり、それなくしてゾクチェンの境地を成就することは殆ど不可能である。

ナムカイ・ノルブ師の著作は、日本でも沢山翻訳されている。訳者は、永澤哲さんである。この方は、野口晴哉先生の研究などもしていて、これも書籍として出ている。ナムカイ・ノルブ先生の著書に『夢の修行』(法蔵館)がある。この先生は、夢のテルトンと云われていて、夢で法を受け取ったり、弟子の夢の中に自在に登場する力を持っている。僕も何度かそういう経験をしたことがあるし、多くの弟子が体験している。この本を読んでいただければ、その凄さの一端がお判りになると思う。今度、僕が書く本の中で、どうしても必要な部分があるので、ナムカイ・ノルブ先生の教えを少しだけ引用させていただくことをご了解いただいた。野中操法を説明するのに、どうしても必要なのだ。

実は、今回も10日ほど前に『霊夢(予知夢)』を見た。師匠の境地を象徴する音の伝授をナムカイ・ノルブ師より受ける、というのが霊夢のストーリーだ。そして昨日、実際に僕は先生からそれを受けた。この師匠の境地の音を使っての修行を『ラプトゥ・トォーメー』という。こういう伝授を『直指教導(じきしきょうどう)』という。伝授や修行は夢の中のほうが、はるかに明晰で強力だ。音にしても、夢の中では反響の感覚が違う。現実には出来ない密教の観想も、夢の中では信じられないくらい出来る。夢の中で修行し、現実の修行のときに、それを思い出して統合すると容易に出来るようになる。

僕はこの秋から本格的に滝の修行を開始する。10数年ぶりに荒行に挑む。この滝行なかには、気合法・深息法・鎮魂法などの霊法も盛り込まれているが、チベットに伝わる『ゼルンガ』という元素を使った修行も取り入れてある。このゼルンガは僕が最も得意とする修行だ。水や火などの元素を使うのだ。くだらないことはスルーして、僕はいま燃えている。

【滝行の修練会:2009年6月7日(日)】気合法実践 

 ※この募集は締め切りました。

今回の募集は、滝行(たきぎょう)の修練の参加者募集だ。
日程は6月7日(日)。場所は、武州御岳山:七代の滝の予定)。5月中に実施したかったが、時間が取れず6月になってしまった。

僕もいい年なので、そんなには荒行は出来ないから、今のうちにお伝えしておく必要がある。ちなみに『滝行(たきぎょう)』と『焚き行(たきぎょう)』は両輪のようなものであり、『焚き行』とは『護摩の法』のことである。ここでいう護摩の法は、柴燈護摩法という山の中で焚く行法で、これはもう少し先に伝授しようと思う。僕はこの法を大峰山修験道の大先達から受けている。

滝においてを修練する必要性はいくつかの理由がある。参考までに云っておくと、四我から生ずる「魔境」の対峙。次に、音響法の体得。密教の技法である「入我我入の法」の体得。鎮魂状態へ導く。「水の精」を集める三昧力の体得。潜在意識の浄化。気合法修練。等など、まだいくつもある。

今回の修練会では、入滝の作法(滝の入り方)の講習という意味合いが強い。般若心経くらいは諳んじておいてもらわないと困る。九字の玄義もお伝えする。気合の体得には良いから励みになると思う。もっともこれは前段であって、今年の晩秋には、本当の荒行をやりたいと思っている。心身を変えるきっかけをつくるのである。

しかし何といっても「気合法」だ。野口晴哉先生は、よくぞこの法の『型』を残しておいてくれたものだ。これがすべての基本になる。もちろん深息法はもっと基本だ(この深息法は松本道別翁の直弟子の方から習ったものです)。

しかし、皆さん安心していただきたい。これをやって高い伝法伝授料を稼ぐなどという気持ちは僕にはありません。野中操法にしても霊法伝授にしても、誠をもって世のため人の為になろうという志しがあれば、それで結構です。自分の心に違背することがなければ、それだけでよろしいです。人間、自分は欺けないし、因果を眩ますことは出来ないからです。

己を厳しく修練し、鍛え上げて、愉気をし、操法をする。これで生きてゆけて感謝される。皆さん、これ最高だと思いませんか。僕はいまこの道にあることを幸せに思う。この幸せを多くの人にも味わっていただきたいのだ。

最後に1つおことわりを。僕は禁欲修行派の人間ではありません。夜になるとその辺の焼き鳥屋さんで一杯やっているようなオヤジです。本気で滝をやりたい方はご連絡を。参加者の募集定員は、せいぜい5〜7名程度です。まあ、誰からの連絡が無くても一人でやるので、僕としては変わりないことですが・・・。

【桑田欣児著:神鑑法】と野口晴哉の愉気法(掌心発現)

 整体操法の創始者である野口晴哉先生の師匠に、松本道別先生と桑田欣児先生がおられた。野口先生も含めて既に故人である。

松本道別翁は「まつもとちわき」と読む。大祓詞(おおはらいのりと)の詞から来ているのであるから、「どうべつ」とは読まない。そのように読むのは霊術や霊学の勉強が足りないからである。よく整体操法を標榜している人で霊術を否定したり、勉強もしない人がいるが、もう少し幅を持たせたらと言いたくなる。野口整体と霊術は関係ない、というのが主張のようである。何事も味合わなければわかりませんよ、とだけ言っておこう。

桑田欣児(くわたきんじ)先生は、松本道別翁の直弟子である。だから野口先生とは兄弟弟子でもあるわけだ。僕は随分と、その昔の霊学・霊術の本を読んでいるけれども、松本道別翁と桑田先生の著作はダントツで白眉であると思う。野口晴哉という人は、この2人の先生の法術や技法を完全に自家薬籠中にしたのであると考えている。

桑田欣児先生の著書に【神鑑法】(しんかんほう)というのがある。【真生の道】(昭和18年刊行)という本では【真鑑法】と表記されている。僕はこの書を近畿地方に住む貴重書物収集の大家の方から複写を分けていただいた。ご迷惑がかかるので詳しい個人情報は書けない。しかし心から感謝申し上げているのである。これも不思議なご縁である。

僕はこれを製本して、よく持ち歩いている。分らずとも眼を通す。眼光紙背徹するというけれども、心で感じとるように読む。おもしろいことに、そんなことを続けていると、突然、判然としてくることがある。意味がわかってくるのである。そんなようにして【神鑑法】も読み解いた。

お陰で今では、その活用法も分ってきた。解説が出来る程度にはなっていると思う。この法は、霊感や特殊な修行に依らずに、人の運命や人事百般を的中させることの出来るものだということである。

僕が何故、野中操法や整体操法に関係のない『神鑑法』なるものを話題として出すのか。整体操法と各種の療術の統合を目指しているので、野口晴哉先生の法の根源とか各療術との関係などを知る必要があると思うからだ。個人的には、最強の統合体:野中操法を完成させたいのだ。

くだんの『神鑑法』を紐解くと、野口晴哉先生の云われる『掌心発現』の見方の原型がそこにある。というよりも、そのものなのである。不世出の天才:野口晴哉先生は、桑田先生の法術もやはり自分のものにしていたのである。整体操法の一部として取り入れてしまっていたのだ。整体操法ばかり野口整体ばかりやっている人には、こういうことはわからない。まあ、わかろうともしない。しかし、何かを掴むように思っている者にとっては、貴重なものなのである。未踏の活用法が見えてくるのである。

桑田先生を大切に思う人々から、そういうことは書くな、ということを言われそうだ。だが僕は、そんなことはお構い無しだ。日本に在る、人類の貴重な法を残すのに、僕が記す駄文のようなものでも、役にたつと思うのだ。まごまごしていたら、何もかも失伝してしまう。そっちほうが問題だと思う。
皆さんは、そう思わないか。

いずれにしても愉気法(輸気法)に習熟する必要があるから、野中操法研究会でも、愉気法の訓練を導入しようと思う。誘導を開始しようと思う。各種の行気法も講習のはじめに、皆さんでやろうと思う。我が研究会では、掌心発現に伴う、特定の部位への愉気も既にお伝えしている。興味のある方は講習会にご参加ください。

お彼岸(2) 【霊眼開発の法】 秘書:天眼氷釈とは

 お彼岸(2)。今日もまたおかしな話題を提供したいと思う。
昨日は死者に関わるあるいは助ける法について書いた。本当は序文にすらなっておらずそういうものがあるとだけ述べた。法の世界は深くて広い。追いかけていたら切りがない。たいがいにしないといけない。しかしこれはと思う法があったら何かの縁かもしれないからやりこむことだ。そこから何かが生まれ、その他の方法も比較的容易につかめる。「一事百通」の言葉通りである。

今日のテーマは「霊眼」だ。野口晴哉先生はこの「霊眼」の持ち主であったという。多くのエピソードがある。令夫人である野口昭子さんの著書『整体法創始者の伝記 回想の野口晴哉 朴歯の下駄』(ちくま文庫)では、この「霊眼」についても書かれている。P61〜62鶯谷記から引用してみよう。
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