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  • 2012.12.01 Saturday
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神秘の秘星【密多計地星・須都羅摩破星】

彗星

今日は星のお話しをしよう。
星と言っても、天空に輝く星座のことではない。それは運命の星のことだ。

人生とは星の運行に似ている。廻ってくるという点。星と星が重なるという神秘。突然、彗星が横を通ってゆく。 

霊学では、人間の人体や精神を含めて、小宇宙だという秘説がある。その詳細も時機をみてお話したいと考えている。

あまり知られていない「秘星」について述べたい。
それは2つの星だ。1つは「密多計地星」。2つ目は「須都羅摩破星」。いずれも専門家でも聞いた事のない「運命の秘星」だ。これらの深遠な教えが消滅することを憂い、敢えて公開した。

よろしいか。
先ず「密多計地星」。この星は、主に女性に出現する。あるいは子供に出現する。いわゆる「水子」の存在を示す秘星である。水子がいるから必ずあるとは限らない。しかし「青白い光り」を放って存在を示す。その色は、青く悲しく光る独特のものである。

「須都羅摩破星」。この星は「由縁の精霊(ゆかりのしょうりょう)」の存在を示す。主に祖霊で未成仏の霊的存在を教えてくれる。出現した部位により、それが父方のホトケなのか、母方のホトケなのかを示す。また附属している他星により、そのホトケの死に方(例えば変死なのか、病死なのか、癌なのか等々)が判定できる。

口伝を言うと、「須都羅摩破星」が出ていて、その上で「密多計地星」が出現するのである。腰部のあたりに出てくるのである。

わたしの場合、整体法施術のときなど「霊光療法」による「輸気」を行なうわけである。そういう時に、この星を見つける事がある。本来は星座を組んで、鑑定判断するわけだが、実際の体の上に見ることがあるのだ。青く悲しそうに光っている、そうぶら下がっているのだ。

昨年の暮れに、渋谷にカレンダーを購入しに行ったのだが、若い女性が5つも6つもぶら下げているのを見て驚愕した。まさしく「因果は眩ますことが出来ない」のである。

わたしのところでは、密多計地星・須都羅摩破星を供養するための「幽魂安鎮」「水子霊符」をお教えしている。今後は御真言その他も教授する。このような秘星をそのままにしておいてよいという事は、当然のことながらないと言わざるを得ない。読者はどう思うか?


塩川大瀧:寒中禊ぎ滝行【真剣な修道者へ 惑・業・苦のこと】

昨日1月16日、塩川の大瀧にて「寒中禊ぎ滝行」を行なった。
例によって、龍神祝詞をあげ、さらに護摩供を行ずる。ご法楽を捧げて、入滝した。

恒例の複数人での入滝である。
修行者、修道者の「カルマ」「問題」「持ちもの」を観る。様々なカルマを持っている、それが人間というものである。つくづくそう思う。

この世をば、「娑婆」という。訳せば「忍土」。または「苦海」ともいう。
苦があり、忍耐が必要な世界なのだというのだろう。だが楽しいこともある。反対が共存する矛盾した界だ。生まれたならば必ず死ななければならない。この世の生き物には、そういう宿命がある。いや宿業というのかもしれぬ。「四苦八苦」というが、その通りだ。

わたしの経験からすると、産土神から受けし、自分の使命を自覚することで、生きるも死ぬも一如になる。今日を生きる、「いまここ」の境地が開かれると思ふのである。

だが、なかなかそれを悟ることができない。鎮魂しなければそのことを掴むことが出来ない。結局、同じところをクルクル廻り、境地が進まない。詳しい修行は、ご縁あらばわたしと一緒に行なってゆくよりほかない。よく言うではないか、「利口で貧乏するを見よ」と。小賢しい智恵よりも、腹を作ることである。

わたしは神法や道術、霊学・霊術を修する者であるが、若年から仏教や密教にも関心があり、随分と探求してきた。確かに最終の悟りは、「真の神法」によらなければならないが、人間としての穢れや不浄の解析は、仏教の教学が一番高度だと思ふ。地球上の教えで、その点は一番発達していると考えられる。ただ、本当の霊的幽的な原因を知るには、道教や神道よらないと分からないと思う。

修行をしていると、それに伴って、様々な業が出てくる。洗い出されてくるのだ。このことは避けることができない。

これは人によって様々である。肉体的なことに関する業。心に関する業。その顕現の仕方は多種多様だ。例えば、滝行法などは、一番そういうものが出てくる。恐いのは自分でよくわからないことだ。すでに「魔境」に入ってきているのに自覚していない。これを「惑」という。「惑う根源」ということである。惑う根源から「苦」が生じるのである。仏教の教学的には「惑=煩悩」ということになる。

確かに、「鎮魂帰神滝行法」によって、霊魂(たましい)は磨かれ清められてゆく。このことは間違いない。しかし、多くの業、それは先祖からの業や、自分の前世からの業であるが、それをそのままにしていて、いきなり鎮魂法をやっても、それだけでは不充分だということが、現実にあるのである。

修行を展開することは、必ずしも世間的な幸せには繋がらないかもしれない。いまの自分の境涯から変わってゆくのであるから、それは現実的にも大変化が生ずる。不都合や不条理が出てくるものだ。軋轢が生ずるのである。

思い当たる人は、直接わたしに聞いて指導を受けるようお勧めする。自分だけの判断というのは、まさしく「我見」ということになりかねない。本格的に魔境に入ってしまうのだ。

基本的には、すべては自分の「心の本性」の顕われだと認識することである。そして我が身の不徳、我が気質にその答えを見出すことである。天源によって示された「三輪」をよくよく観、考察することである。

よく「悪業」「悪因縁」などという。わたしは「惑業苦(わくごうく)」ということにしている。この言葉は仏教の「法相唯識教学」からきている。惑・業・苦と連鎖していて、各々別なのだが、穢れの実態実相として、是く名づけているのである。折角なので、解説すると次のようになる。

「惑=煩悩」。詳しくは10種の根本煩悩と20種の随煩悩がある。更に分類すると108煩悩になる。これらが、業(思考・行為)を起こし、苦(自分と他人に)を生じる。従って、煩悩を捨てることが苦の解決になる。これが仏教の解脱論の土台だ。 根本煩悩を「本執」ともいう。貪・瞋・癡・慢・疑・我見・辺執見・邪見・見取・戒禁取の十である。我見から戒禁取までの五を「悪見」という。悪見を一つとみて、六煩悩(貪、瞋、癡、慢、疑、悪見)とすることもある。これらが六道輪廻のもとになる煩悩である。「貪」はむさぼり、「瞋」はいかり、「癡」は「無明」である。無明は、最も根源的な無知であり、一切の煩悩、業、苦の根本原因となる。貪・瞋・癡は、三悪道=三途へと衆生を誘う。

我が、滝行法を修する真剣な修道者たち、修行の真義について理解を促すために、この文章を書いた『世界は一家、皆兄弟姉妹!』川島金山の心の真意を汲み取れ!と言いたひ。 

魂の感応【霊学・霊術の本質】

【霊光療法(3)】 を著わそうと思ったのだが、昨日の記事で『魂を清める』ということについて述べたので、それについて少しつっ込んでお話しようと思う。

霊光療法も輸気法も、大正時代から昭和初期にかけて出現した、霊術=療術の流れからきている。更に遡れば、江戸末期から明治時代にかけて起こった霊学・国学的なものが源泉にある。大元を辿れば神代の時代にまで遡ることができるだろう。

輸気法(ゆきほう)は霊学の大斗であるご存じ松本道別翁が創ったものだ。その一番の直弟子だった野口晴哉師が輸気法を「愉気法」という表記に変えた。このことについて、愉快の愉にしたところに野口師の新境地があるのだという研究者もいる。しかし、わたしはそのようには考えない。日本が戦争に負けて、日本的なもの霊術や療術はもう芽が無かったから、縁を切る上で表記を変えたのだと考えている。さればこそ、整体操法協会を辞めて療術と縁を切り、文部省管轄の社団法人整体協会を創設したのだと思う。

だから輸気法も愉気法も本質的には同じものなのだ。では野口師はどのように説明しているのか、それを見てみよう。公開された資料、すなわち彼の著作から引用してみる。

『愉気の本質 ー魂の感応ー
私のいう愉気というのは、人間の魂の感応というものでなくて、もっと物理的な、生理的な力かも知れないのです。しかし私は物理的な、生理的な力として愉気するのではないのです。そういう力は細かくなっても放散物質です。人によっては、ラジウムのアルファー線と同じ働きがあるとか、ガンマー線のようだとか言って、いろいろ実験して証明しようとしている人もいますが、アルファー線は少し離れると効かない。
気が合えば遠く離れたアメリカにいても効くものです。気が合わなければ隣にいても何も作用しない。それが気というものなのです。だから生理的とか物理的とかいうのではないもの、気の背後にある何かが気を通して感応するのですから、やはり魂の感応という方が本当ではないか、と思っております。
しかし今頃‘魂‘という言葉を使うのは旧式だという人がいます。私の自動車は二十三年前のものです。普段聴いている蓄音器も三十年前のものです。ライターも二十何年前のものです。大体、私自身が古いのだから、言葉が古くともしようがない。‘魂‘という、それでよいと思います。‘魂の感応‘自分ではそういうつもりでやっております。自分の全部を叩きつけるようにして愉気をします。指先だけの誤魔化しはしません。だからその人の全部が動き出してくる。そうでなければ愉気というものではないと、私は思っております。手から出る気を伝えて行くとか、その気で傷口を治すとか、そういうのは、生理的な気かも知れません。けれどももっと直接に、その人の魂に自分の魂をぶっつけて、そして揺す振り起して行くことが、愉気ということの本式のやり方ではないかと思うのです。
(野口晴哉著「愉気法1」より引用)』

果たして師の言う「魂(たましい)」というものを掴んでいる人がどれだけいるのであろうか?
わたしは15歳から修行を始めて30年、ようやく自分の「魂」を知ることができた。それは心とかそういうものではない。正確には「霊魂(たましい)」と書く。だが、一般的にも、理解していただくためにも、「魂」でよいと思う。

御岳の七代の滝は、魂を教えてくれる修行場、禊場なのである。
魂から気も発生しているし、その周囲に悪因縁・悪業も付着している。魂を清めて、清めた魂から輸気をする。気合法と共に滝行法を行うのだ。それを自ら実践すれば、わたしの言っていることが真実だと分かる。輸気だの整体法だの体癖だの理屈はいらないのだ。

諸兄は、魂を清める、このことが霊学・霊術の根本だと知らなければいけない。産土の教えと共に我が会の理念は、究極に近づいているのである。整体法もこの範囲を出ることはない。理屈のお好きな人や先生・オタクさん達は、永遠に考え続けてみてください。結局分からず終いでおわりでしょう。

霊界にも結婚生活があるか?

ごく最近、霊界にも結婚生活はあるんですか?という主旨の質問を受けた。
霊界と言っても一言では表現できない。人間の思惟の範疇を悠に越えているからだ。

しかしながら上記の質問はかつてより考えられてきたものであり、多くの心霊研究家により一つの回答が出ている。邦訳したものだがそれを記そう。

『死後の世界では肉体がなく、従って肉体的欲望つまり性欲がない以上、地上でいうところの結婚はない。愛によって結ばれて共に暮らすということが霊界の結婚であり、そういう形態は地上でも無いことはない。性欲に起因する肉体的交渉も一種の愛の形態であるが、地上にしろ霊界にしろ、結婚の真の形態は二人の人間の間の霊的親和力による一体的生活をいう。
従って地上で夫婦であった者が他界した場合、両者の間に真の愛があれば、というより真の愛のみが存在する時のみ、両者は霊界でも一緒に生活することができる。かりに片方が先に他界した場合は、地上に残った配偶者を霊界から見守る。そしてその配偶者が地上を去ると出迎えて再び一緒の生活を始める。
ただしそれは真の愛によって結ばれた二人の場合である。愛こそが判断の基準である。教会で結婚式を挙げようと回教の寺院で挙げようと、あるいはただの入籍だけで済まそうと、そんなことは何の関係もない。二人の間の親和力が存在すれば、つまりもともと一つの魂が男女に別れてこの世に生まれた場合であれば、両者の結婚は二つの魂が一つに結合されることであり、これなら死後も一体のままである。
もしもその親和力の関係が存在しない場合は霊界ではかならず別れ別れになる。たとえ友情によって結ばれていても生活は別々になる。
では離婚して別の人と結婚した場合はどうなるかということになるが、答えは簡単である。魂の親和力による結合は一度しかあり得ないのであるから、地上で何度結婚しようと、霊界で真の魂の相手を見つけて、そこで真に結ばれるのである。』

神祇の道、日本古来からの神の教えも『夫婦の和合』を説いている。
このことは道を成就する上でも大切なことである。真に魂の親和力を持った人間は一人しかいない。
それはお互いに明確に判るものである。遠隔の地にあっても心がわかる。近いものである。

以上のようにわたしはお答えしたのである。

天源術【忠臣の相・悪人の相】

14日は義士祭だ。赤穂浪士討ち入り記念日だ。

品川の泉岳寺に四十七士の墓所がある。ここは香華が絶えない。14日などに行ったら大変な人出だ。

わたしも毎年この前後に映画を観る。好みは片岡智恵蔵が友情出演している作品だ。長谷川和夫が大石内蔵助を演じている。正統派の古典の名作だ。

「国体」という造語をはじめて述べた彼の藤田東湖は「正気の詩」のなかで、四十七士の精神・気質を「正気」だと記している。正気は武士が持ち、神祇が備えているものだ。忠孝という心も、この正気から出ているのである。

神法でも『天地の正気を受けて・・・』という秘文がある。正気を持つ者のことを「神人」「寿真」「神仙」というのである。

いま歌舞伎と言えば、海老蔵のことが世間を騒がせている。わたしなども髪の毛の短いところだけ海老蔵みたいとコケにされる。

以前、天源家の一人が歌舞伎座のところで、役者が出てくるのに遭遇したという。観てみると大変に相が悪い。というよりも、大悪人の相だったという。またある時に同じように遭遇した。今度は同じ役者が大忠孝の相が顔に出ていたという。不思議に思い調べてみると。その役者が石川五右衛門の役をいやっていたときは舞台が終わっても悪人の相になっていて、忠孝の相のときには「忠臣蔵」をやっていて大石内蔵助を演じていたという。

役者の役作りは凄いものだと思う。しかし逆説的に、心で念じたことは相に現れるということであると思う。

自然に善い相の現れるような修行をしたいものである。これは人相に限ったことではない。人を馬鹿にする態度には「おごり」がある。自分にも他人にも恥をしらない態度・行為には「不貞」の因縁がある。所作一つで、その者の内面やレベルが分かってしまう。

お互いに低レベルのことは止めにしたいものです。

一度、割れた皿は元に戻ることはないのです。貴重な皿を大切にするように自分のことを大切にしましょう。相がよくなる、そういう生き方を志向しましょう。

不死金剛の玄胎神身を成就するなり

松本道別翁はその著書の中で『不死金剛の玄胎神身を凝結成就するなり』と述べている。

神道系では、己の身の中の霊的な体を「霊胎」という。
仏教系、殊に密教では「金剛身 」というのである。

密教では、まず「金剛サッタ」になる。普通の人間では密教の法を修することはできない。まずは金剛の菩薩になって、密教「変化の修行」をするのである。

金剛サッタとは、清められた存在であり、煩悩や欲望、カルマを昇華することができる方法を持つ者のことである。怒りという煩悩が生じても、すぐに明王の三昧に入り、怒りのエネルギーを智恵に変換してしまう。このようなことができるのが、金剛サッタである。

浄化していることと、エネルギーをコントロールすること、これが特長だ。

金剛サッタになった者は、金剛身を得ている。わたしはこの金剛身こそが、神の方でいう玄胎もしくは霊胎の基礎ないし本体なのではないかと考えている。

1月〜3月、わが会では毎週、滝行修練を行う。これはクンダリーニ開発と同時に、霊体の基礎作るためのものである。幸い滝の流水に祈り、行者が入滝しているときに、その滝の本尊神祇の力を霊水に込める霊法を体得しているので、霊的清めの滝行ができるようになったのである。

その意味で、霊水の洗礼を冬季は沢山受けれるということになったわけである。

松本翁のいう不死金剛の玄胎神身を完成する呼吸法と共に、来シーズンは本格的な霊的修行に突入するわけである。

全ての修行課程に参加できるのは、神許のあった方のみです。

霊学講座【産土神冥徳講義】

本日で霊学講座も第14回をむかえる。
松本道別翁による名著霊学講座で一つだけ難があるとすれば、産土神について触れていないことである。

このことは由縁あってのことだと思うが、産土の教えなくして霊学そのものが成り立たない。
日本の教えの素晴らしさ、イコール「産土神の御恩徳」である。

霊学講座というと、すぐにテクニックに走る。しかし、いくらそんなものを求めても得ることはできない。小手先だけでは、邪神がとり憑くのが関の山である。

生あるも死あるも、その背景には「産土神」のお働きがある。

わたしはこれを「産土神の冥徳」 と表現している。記念すべき「産土神冥徳講義」の第1回が本日行われる。これはわたしの人生で、或る岐路が訪れていることを表わしていると思う。

奇跡の霊写真【日本武尊の現証】

日本武尊の霊写真 

運命の改定【幽政の秘期、終了目前】

産土で鎮魂石を授かる
(産土にて鎮魂石を沢山授かる)

「幽政の秘期」もいよいよ本日をもって終了する。今日は、最後の参詣を産土にする。そして、最後の祝いのお祈りをする。明日は運命改定の喜びの祝いだ。都合、32日間。

会に来られる皆々様、よくご参詣されました。皆さん、本当の意味で産土に触れたのだと思います。
昨日は、整体講座があり、その前日には「鎮魂石」が沢山採集されました。いずれ皆さんに霊気・神気が宿る「鎮魂石」を授与したいと思います。

ご神体というか、簡易の神棚が欲しいという希望者もいるので、わたしが謹製した神界直受の御神符を入魂の上、奉祀したものを授与しようかと思います。これを礼拝すれば、神界の高位の神祇に自分の祈りを届けることができます。これはわたしの修行30年の大秘伝です。

本当の神祇の拝み方、妖魔祓壌の秘伝を教えるには、この御霊璽なくしてお教えすることができませんこれを授与したものは本当のわたしの弟子です。これを頂きたい人は、わたしの許しのない限り、他団体などへの出入りは厳禁です。頂いてない方は、自由です。制限なしです。ただし弟子ではありません。

弟子には、本当の神法・密法を仕込んでゆきます。プロになりたい人は、真剣に仕込みます。「幽政の秘期」を終えつつあり、得た結論がこれであります。

さて、昨日は「立冬」を迎え、いよいよ本格的な寒行が始まってまいります。
利害損得、毀誉褒貶そんなものはどうでもよい、皆さん心して修行してゆきましょう。
 

松本道別翁「霊学道場」以来の快挙

仙女

現在わたしは『聖ターラの修行 』を行っている。本来ならば1週間のお籠り修行が必要なのだが、諸般の理由で連日修行という、山籠修行に準じた形をとった。

観音様にも「三十三観音」があり、ターラ尊は「二十一相」という変化身がある。仏部のほうには化身するという方法があるわけで、しっかり確立されている。不動明王は、童子法というものがあり、これが秘伝となっているが、クリカラ竜王に変化するというのも大秘伝なのである。

滝場には、水の精がおり、時に龍趣(りゅうしゅ)の境界のものもいる。ゆえに龍神と対峙する法も身に付けていなければならない。それにはクリカラ法が一番だと断言できる。真言行者はクリカラ大竜の法を体得していなければならない。

両伝であるから、密教と神法がなければならない。また、両伝とは「正神界」と「山人界」の両界をつなぐという意味もある。とにかくこの現世で、この法の確立を目指すのは、口幅ったいがわたしだけなのである。誰も言ったことがないし、そのようなことを行うご加護を得ていないのである。

斯道といい、多くの現世での先輩は居るが、所詮は焼きまわし、商売に過ぎない。本当の神霊作用があるものが、商売などするわけがない。そこを見れば一目瞭然なのである。こういう世界は、オタクと同じで所謂「萬集家」みたいなのが居るのだ。そういう者が、真に神界と感応しているのかと言われれば、否である。よくその人間の顔と眼を観てみてください。

この度、わが会は「霊学講座」の著者であり、霊術の匠祖である松本道別翁以来為し得なかった、神界の玄秘に触れることに相成りました。この幽政の期間に、多くの生徒にこのことをお伝えした功徳が、結実したわけです。この成果は、来る年にご披露相成ることと思います。

詳しいことは、会に集う仲間にお伝えします。勿体無くて、こんなところでは少しのことですら書くことが出来ません。法脈は純粋さが必要です。あらためてこのことを強く感じます。






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