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  • 2012.12.01 Saturday
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神聖なる聖地【高知土佐へゆく】

本日4月28日から「神事」のために高知土佐にゆく。

何年ぶりのことだろう。運命とは実に数奇である。

タナスカ、五台山、吸江橋、浦戸竜王宮、神山手箱山、仙境大瀧が呼んでいるのだ。

この度ゆく聖地・霊地は、日本における一大仙境である。

太平洋に広がるワダツミ神界から四国の尾根に至る、重要な神界直結の霊地なのである。その範囲は、広くて深くて高い。

ここまで来るのに2年間の「禊ぎ」が必要だった。

今回は特に念入りに伝授を行なう。今後の先駆けである。

いずれの日にか、高知で伝授会(合宿)が行なわれることを願う。恩頼(みたまのふゆ)がゆくように。

その為には、至誠が必要だ。それなくして実現は困難だと思う。当たり前ではないのだ。

皆さん、人として、生まれてきた意味や、霊魂の真相をよくよく考えてみてください。

何かを掴まずに、死ぬることができますか?本当の生命霊魂の実相を掴まずして死ねますか?
どうせなら生死一如、自由自在の境地を掴みましょう。

修行するのも、楽しむのも、今しかないのです。生きている今しか。

では、高知に行ってまいります。

合掌

川島金山

 

 


探求【易を究める】

高島嘉右衛門の至誠感通之図
易聖『高島嘉右衛門(たかしまかえもん)』

ごく最近、『フトマニ』のことが頭から離れない。

フトマニとは、一種の占いである。『太占』と書く。

単なる占いではない。発祥は、神様たちが正神界(高天原)で行なった、一種の神事である。「古事記」に明らかである。

「古事記」は霊学・霊術を行なう上で、最も尊崇すべきテキストなのである。一種の辞書のような側面もあれば、修道法が記されている「秘伝書」的な面もある。

フトマニの解釈は様々だ。わたしはフトマニの真義が知りたくて、古神道の修行に入ったようなものであるし、今でもその探求は続いている。

密教では「即身成仏」、神道では「フトマニ」が究極の境地だと思う。

「鎮魂帰神」とは「フトマニ」ということである。整体の「天心」だって同じラインだと思う。

そして、易の修行に心が向かった。以前にもお話したが、わたしの祖父は「易の達人」だった。家には、古くから伝わる「象牙の筮竹」があったという。しかし今は無い。母が子供の頃に、兄弟と遊んでいる時に、おもしろがって川に流してしまったそうである。

わたしが易に興味を持つ、これが血というものなのであろうか?忽然と「易占」を究める修行に心が趣く。伝えによれば、易は神界より洩れし「フトマニ」の名残だという。易には神秘不可思議な力があるのである。

わたしの実家は、易聖と称せられた「高島嘉右衛門(たかしまかえもん)」が創設したという「高島学校」の地から指呼の位置にある。

高島翁は、若い頃に囹圄(れいご・投獄)身になられたが、遂に易によって「大実業家」になり、ガス会社創建、横浜迎賓館創設、日本初の鉄道事業(桜木町〜東京の有名な丘蒸気)を着手など等、成功実績に枚挙がない。

そうような影響もあり、易はいずれかの時期に本格的に修行すると決めていた。それはどうも今のようである。

そう、高島翁は若い時に土佐高知に来訪しているのだ。実はわたしの学んだ神道の教えと同門なのである。彼は、そのようにして「神通」を磨いたのである。

昨日、亡き祖父から突然、意志が伝えられた。易の修行・上達について具体的なアドバイスがあった。わたしはあまり「霊聴(れいちょう)」の類いは無いので、まったく不思議だった。しかし、誇張ではなく本当に、明瞭な言葉で意志が、聴覚を通じて脳ミソに流れ込んできた。

高島翁も、祖父も易占で金銭の授受はやらなかった。わたしもこの流儀でゆこうと思う。


霊魂(たましい)を磨く修行【無我の決定】

昨日の記事を先ず読んでいただきたい。『何の為に修行するのか【惑業苦・因縁論を説く】 』である。

まず、霊魂論と霊魂を磨くことの意味、気質因縁や家系統のカルマ、祖霊七代霊格向上など等の基本的なことをご理解いただきたい。

今日の記事は、霊魂(たましい)を磨く修行のなかで、大切なこと。「無我の決定」について述べることにしたい。「むがのけつじょう」と読む。

修行の開始にあたり、まず「無我」を誓うのである。

「無我」というのは、仏教の用語であり、人間の本質には、我(アートマン)といわれるものがないという意味である。インドではアートマンという常住不変の実体が、人間の根本にあると説く。それをアートマンといい、宇宙の根源にはブラフマー(神)があって、これと一つになることをもって悟りとする。これを「梵我一如」という。アートマンという言葉を中国では「我」と翻訳したのである。

だから無我というのは、アートマンというものは無いのだ、という意味なのである。これは仏教のほうの教えである。

また「無我の境地」などという場合もある。これは、雑念が無いというような意味で使われることが多い。

しかし、わたしがここでいう「無我の決定」はそのどれでもない。
気質因縁からの見解や行為を放下(ほうげ)する意思を固める(決定)こと、このことを指すのです。

修行してゆくにつれ、悪しきカルマ気質が、どんどん出てくる。このときに退かないこと、言い訳をしないこと、屁理屈をつけないこと、逃げないこと、このことを言っているのである。「我=我見」を差し挟む。気質から考え、行為しているのに改めない。そんなことをしていると、洗い出てきた気質がいよいよ増長して、本物の因縁になってしまう。

「因・縁・果・報」といい、「因果」などとも言う。因と縁が結合して、ひとつの果報(結果)が出てくる。
因果経という経典に「内に因あれば、外にこれを助ける縁あり」という。因が内にあれば同時に縁が生ずる。これを一言で「因縁」というわけである。

「縁起」といい、「縁起をかつぐ」「縁を断つ」「縁を切る」などという。縁起というのは、お釈迦様が説いた「縁起の法」に由来している。縁の中に、因を摂して、縁を変えるのであれば、業の転換になるが、因をそのままにしておいて、縁だけ変えても、内に因があるので必ず縁が生じる。多くの人は、このことが分かっていない。

因を滅し、縁を変えるには、はじめに「我見」を排するという「無我の決定」をしなければならない。その誓旨(せいし)というものを天地神明、師匠に表明しなければいけないのである。

心理学者のアーノルド・ベネットは次のようなことを述べている。
人生の失敗の原因として、3つのことをあげているのだ。これは霊的修行にも適用される。
(1)願望の欠除
(2)友人の嘲笑
(3)最初から多くのことをやろうとし過ぎること
である。

修行・修道の目的ということを明確にしなければならない。何の為に修行するのかを、よくよく観念しなければならない。願望が明確でなかったり、曖昧であったり、ずれて居たんでは目的は達成できないであろう。

周囲の嘲笑というものがある。これは必ずある。人間というものは不思議なもので、他人の自己開発を喜ばないのだ。喜んでくれる場合もあるが、案外近くの者からの妨害があるのである。あなたは、他人を妨害してはいけないし、妨害されることがないように、黙々と神真のご加護と護身乃法を修するがよい。執拗な妨害あらば師匠の指導を受けよ。感通の神力により、転換させるぞ。

一つ一つ、修学してゆくこと。学校の勉強のようにライバル心を燃やしてお経を暗記したりすることほど愚かなことはない。かつて負けず嫌いで暗記していた者がいたが、全然境地が向上しないで終わってしまった。また、きちんと記憶して学ぶ努力もしていないのに、(自分のこと頭が良いと思っているのか)他人の指摘ばかりして、法を一つ一つ学んでいない。これでは「我見」「気質因縁」を越えることはできない。したがって運気転換は成し得ない。

いま述べているのは、修行開始の時点での心得だ。このような順序を経て、本物の修行者になってゆくのである。さればこそ「霊魂の磨き」が可能になるのである。


御岳懺法【ある女性修行者の反省行】

御岳懺法【ある女性修行者の反省行】と題して、思うままに記すことにする。

御岳懺法とは「みたけせんぽう」と読む。懺法とは、いわゆる懺悔の方法であり、主に仏教のほうでいう修行方法の一つである。この原型は、お釈迦様在世の当時も存在していた。戒律にも重軽があり、軽いものを犯す場合がある。その場合、布薩(ふさつ)といって、特別な日に懺悔するのである。

懺法には、「観音懺法」「法華懺法」など幾つかの種類がある。この懺法によって過去世からの悪業因縁を浄化するということがあるのである。チベットなどには「三十五仏」の懺悔法というものがある。

仏教・密教には、サマヤ戒をはじめ大乗菩薩戒・五戒など様々な戒律がある。そして誤って犯してしまった場合の便法がある。修復するための方法である。

例えばチベット密教における「ガナ・チャクラ・プジャ」 は壮麗な方法だ。サマヤ戒を修復すると共に功徳を一気に積集(しゃくじゅう)するのである。非常に優れた方法である。

戒・定・慧を三学といい、戒律を遵守し、正しい瞑想をし、さらに本当の智慧によって解脱する。これが仏教の修行方法だ。この三学に、「懺悔の方法」も加わり、いまひとつ「福を得る方法」も加わる。およそこれらの5つが仏教の修行方法といってよい。

わたしが今日テーマにしているのは、別に仏教の方法ではない。わたしが思ったことを、そのまま表現すると、「御岳懺法」ということになるのである。

先般、わたしは「山の修行」においてのあり方を書いた。滝行公募中止ということを発表した。参加者で思い当たる人もあろうし、反省のポイントがずれている人もいると思う。

その中の一人の女性修行者が、先般13日(日)に、積雪の御岳へ行ったそうである。一人で果敢にも山の中を歩いたそうだ。七代の瀧、天狗岩と懺悔の祈りをしてきたのだと思う。彼女は、気がすまなかったのであろう。このことが果たして、あり方として合っているのか間違っているのか、わたしにも分からない。だが、一ついえるのは、わたしが同じ立場であったら同じ事をしていたということである。

わたしが評価するのは、一人で行ったことだ。積雪の山中をゆくのは多少の危険と勇気がいる。そこを越えて一人で行く。これは「懺悔の修行」であると思ふ。

仲間と打ち合わせしてゆくのではない。相談して、「ゆこうよ」などと言ってゆくのではない。自らの意思と責任においてゆく。わたしは彼女のようにやるのが良いと言っているわけではない。同じようにやれば良いというものではない。

大切なことは、言い訳をせず、人のせいにせず、黙々と向き合うことだ。自らのあり方を自然に問うのだ。護身の方法は、最低でも教えている。それらを密用して修行する。

本日、彼女の操法をしたのであるが、納得している意識が背中に現れていた。その背中を感じ取って、わたしはこれは「御岳懺法」ではないかと考えた。そしてなんだか嬉しくなった。

今日も、わたしは言うべきことを言った。誰にでも、分け隔てなくモノを言う。時に、素直に指導に従わない者もいる。わたしは、産土の大神様からの与えられし使命を自覚しているから、只々時を待つだけである。だから、わたしは第一に、素直に懺悔反省する修行者を愛でる。真剣に育てようと思う。

師と弟子の信頼がなければ、そんなものは何の役にも立たない。師に対して、屁理屈、口ごたえをする、意見するなどはもってのほか。師匠は、霊体二途に渡ってカルマを引き受けもするのだから。正しい心得で接するべきだと思う。

今日から1週間【緑ターラの成就法を修行す】

聖ターラ菩薩(緑ターラ)
(聖なる緑ターラ菩薩)

いよいよ11月朔日である。今年もあと2ヶ月だ。
幽政の秘期もあと1週間で終わる。これから運命改定が発動されるわけであるが、すでにそういう兆候は出ていると思う。11月8日から変更されるのではなく、その前から変化出てくる。このことを指摘した修道者はいない。わたしがはじめて言い始めたことだ。

神事の方式の奉祀や参詣はやっているが、密教の真髄である成就法はやっていない。一つの真言でもそうなのだが、最低1週間やらないと成就法としての効験が出てこない。本当は21日間はやるべきなのだ 。

チベットのラマなどは、1年2年とお籠りの修行を行う。わたしの友人も現在3年間のお籠りの修行に入っている。であるから1週間はやらないと効果が出てこないのだ。

幽政秘期の最後の1週間は、両伝神法・両伝密法の確立を目指す者として、密教の強力な成就法を行いたいと思う。成就法のことをサーダナという。

何を修行するのかというと、緑ターラの修行である。アヌヨーガの修行だ。アヌヨーガは瞬間的に変化する。そして緑は風の色なので、すごい速度で効果が出てくる。ターラの修行は祖霊の供養にも役に立つものである。

今日から1週間(11月1日〜7日まで)緑ターラの修行をする。
マントラを少なくとも1万返は念誦しようと思う。やりたい方はご連絡を。ただし伝授を受けていることが条件です。

クンダリニー・丹田開発の原理【観・念・潜在意識の操作】

周天之図

「ゴルフ人生はアドリブ」その他多数の著書のある故・金田武明氏。略歴は以下の通り。

金田氏は1931年生まれ。早大卒業後オハイオ州立大学―メリーランド大学院―タイム社入社「スポーツ・イラストレイテッド」誌アジア代表として活躍。ゴルフの経歴は、霞ヶ関の学生会員。霞ヶ関クラチャン・世界アマ日本代表キャプテン・関東オープンベストアマ。1957年日本初のゴルフテレビ中継「カナダカップ」の解説。日本ゴルフコース設計者協会を設立し、メイプルCC・古河ゴルフリンクス・シェイクスピア等のコース設計を手掛けられゴルフの腕も見識も超一流。良家に育ちアメリカ生活が長く、英語も堪能、ゴルフも達人。彼のマスターズでボビー・ジョーンズと記念撮影したり、ニクラウスとも親交があったり、また宮本留吉プロからも教えてもらったことのある正統派。

ゴルフ界の重鎮というような人だ。2006年10月17日に逝去されている。この方が、昔、日本経済新聞に次のような文章を載せていた。

『クラーク・ハッチ氏は米国の体育家。日本でアスレチック・クラブをやっていた。ある時彼は重い棒を手に持って上げ下げするトレーニングをしながら、私に、「気をつけなさいよ」とクソ真面目な顔をしていった。「この運動で背中をきたえようと思えば背中が、腕を強くしようと思えば腕が強くなるんです。」
心の持ち方をわずかに変えただけで、おなじトレーニングでも効果は全然別になる。人体はそれほど微妙なものだろうか。そうなると頭と心と体の境界が相当ぼやけてくる。トレーニングのノウハウはおろそかにできない。』

このような理屈は、太古の修行者にはなかったが、心・念・潜在意識の方向性を操作・集中してゆくという技法は、自然に行っていた。密教や古代神道・丹田の開発の修道法は、すべてこのような原理で行われていた。

確かに、生まれながらに神界から来る修道者もいる。しかし、それは極稀であり、大抵の者は、基礎から構築してゆかねばならない。そこに関与するのが、国津神司命三十九神であり、万霊神界の大司掌神:大国主大神である。地上のあらゆる密教的な教えは、すべてこの大神によって管轄されている。もちろんチベット密教もヨーガも管轄内である。

能力を開発するための鍵は「観・念・潜在意識」である。これら方向性を操作・コントロールできることが成否の分かれ目である。

滝行法も気合法も、クンダリニー・丹田を開発しようと思ってやればそうなるものであり。霊的に清めようと決意して行えばそのようになってゆく。同じ修行でも明確な指針を目的を持つことが如何に重要か修行者は知らなければならない。「自然智の会」の修行は、すべて同じ原理で行うものである。
 

後記:再びの啓導【川島金山・奈良に行く】

法の伝授を受けるために、今年2度目の奈良行きだ。
そしてそれは、2度目の御用でもあるのだ。

大神の鎮まります太古の聖地へ。
仙を得た太古の神人のもとへ。
密教の超人の縁のあるお寺での秘法の伝授を得く。

さあ、今後一体何が起きるであろうか!? 

わたしは、前生と啓導者に導かれて奈良へゆく。(10月12日記す 改文15日)


(後記)
不思議なお導きにより奈良に行きました。大変おもしろき事々に遭遇し、ご縁というものの神秘にあらためて感じ入りました。一連のことは、綴ればひとつの「物語り」になることでしょう。著者がいつの日にかこれらのことを諸人のまえに発することができるのでしょうか?
(15日記す)

大峯修行記(1)【九穴の金剛蔵王権現】



大峯修行記(1)である。
いちいち話すのが面倒なので、記しておくことにする。

大峯には、ご存知の通り、女人結界がある。狭い範囲であるが、女性が入れないし、修行することはできないのである。時代錯誤的ではあるが、開祖の役の行者や後に続いた高徳な修行者が、そのようにしたので、仕方のないことだ。近年は、顔を何となく隠して登山する女性もいるようだが、各聖跡を拝して修行することはできない。先達がいなければ、何をやったらよいかわからない仕組みだからである。

まあ、しかしどんなに偉い聖者もお母さんが産んだのであって、母は偉大なのである。その点、ゾクチェンは凄い!男性などはどうでもよくて、カンドロ・ダーキニーである女性を尊ばないと成就できないとされる。ゾクチェンの教えは、もともとダーキニー達が護持しているものなのである。

ゾクチェンや仙法などをこの十数年間、充分積んだ上で、大峯に行ってみると、どのくらいの密教レベルか明確に知ることができた。やはり密教としては、チベットの方がはるかに高度だった。その点はお話しにならないほどだった。しかし、ある種の神法はある。そのことは先般、述べたとおりである。

今回、お世話になった大先達が、早朝の法座で、「穴の蔵王」について触れた。穴とは、九穴のことで、人体の九つの穴だ。この九つの穴が分かるか、というのである。

わたしは、生来の出しゃばりなのか、こう答えた。目2つ、耳2つ、鼻の穴2つ、口、臍、肛門で、九つ。すると大先達が「それは違うでぇ」の一言。「臍ちがうでぇ、第三の目やで」。満座の前で、わたしの言うことが違うと言った。果たしてそうであろうか。

九穴は九竅(きゅうきょう)とも言う。これは東洋医学の方の用語だ。そもそもわたしは鍼灸指圧師だから、そんなことは知っているのだ。だが、九竅(きゅうきょう)だと、人体の九つの穴、両目、両耳、両鼻孔、口、後陰、前陰ということになり、 臍は入らない。ではどうして、わたしは臍と言ったのか。それは仙法に研究法という基礎法があるからだ。究という字をご覧いただきたい。穴・九と書く。研は研磨すること。つまり九つの穴を磨くのが仙法の基礎法の1つなのだ。この種の法は、チベット密教にもにもあり、詳しく説明が出来る。

さて、仙法における研究法は、目2つ、耳2つ、鼻の穴2つ、口1つ、ヘソ、肛門なのである。だからわたしは、そう言ったのだった。そもそも古代の修験は神仙道だからである。神仙と化す。こんなことはすでに常識なのである。

では「穴の蔵王」とは何か。それは「鐘掛岩(かねかけいわ)」のことだ。大きな岩場をよじ登る修行があるのだが、この岩場そのものが、修験道の本尊:金剛蔵王大権現だという。この岩に九穴があるから、「穴の蔵王」と言い、鐘掛岩の秘歌にも、「鐘掛の問ふて訪ねて来てみれば 九穴の蔵王下にこそ見れ」とある。

大先達とわたし、どちらが正しいのであろうか?
我田引水になるといけないので、大修験者:中條真善先生の著書から引用することにする。

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穴の蔵王

 蔵王菩薩の左の目は弥勒菩薩の所居、右の目は阿閦如来の所居、左の鼻は普賢菩薩、右の鼻は釈迦如来、口は大日如来、左の耳は宝生如来、右の耳は観音菩薩、臍は阿弥陀如来、尻は文殊菩薩が在住し給う。即ち此の山は諸仏集会の極楽世界である。然しながら此の山に登るには下品下生より上品上生に至る九位の修行を得て初めて金峯の山上に登る事が出来る。此くて修行者は一切の煩悩を捨て発心修行して少しづつ仏界に近づく様に修行しなければならない。九穴とは九品であり、九穴の各尊は修行者の修行に従って諸尊聖衆の界会に列する事が出来、九尊の加護を蒙る事に依り成仏するに至ることを示すものである。

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このように口伝されているのであり、九穴とは、煩悩の場所でもあり、目2つ、耳2つ、鼻の穴2つ、口、臍、尻(肛門)なのである。第三の目は、覚醒した者だけが開いている、聖なる部位である。だから大先達の言っていることには、独自性はあっても根拠がないのである。というよりも修験道の教義的には、おかしな話なのである。

第一、今回は「鐘掛岩」での修行は出来なかった。その理由は、あのとき岩の上には、以前わたしが待っていると言った、神仙が居らしていたのである。だから、わたしは裏側からも行かなかった。知らないというのは、恐ろしいもので、そこに、つかつか行く者もいた。何事にも恐れを知っていることが大切と思った次第である。

補足しておくと、わたしの脳裏には、「識なり」との概念が流れ込んできた。
そう「九識」だ。人間の心を仏教では解析し、九つの心に分けた。
九識は、九煩悩であり、極楽の九相(下品下生〜上品上生)であり、九尊であり、九穴なのである。すべて同じ事を言っているのだ。鐘掛岩をよじ登って、どのように之を悟るかという具体的な方法がなければならない。伝統の中で胡坐をかいているものには、永遠にわからないことであろう。


【大峯山修験修行】無事行満

平成22年8月大峯山修験修行が無事行満しました。
台風が来るという条件の中で、登拝があやぶまれる状況での修行となりました。
仏天のご加護、関係者のご尽力により、初志を貫徹することができました。
お名前は、いちいち挙げませんが、先達・修行者の方々に、心から御礼申し上げます。

行中に感ずることも幾つかありましたが、それらのことはいずれの日にか、お話しするの機会があると思っております。まずは、今回の峯入りが、無事満願したことを、ここにご報告させていただきます。 

川島金山 九拝













 

 

 


 


吉野大峯修行の玄義

玄義という語は、天台大師の講説集『法華玄義』をもって嚆矢とする。この書は天台大師の説くところのものを弟子の潅頂(かんちょう)がまとめたものである。

今日述べるのは、山岳修行の玄義、つまり奥義、真髄ということである。
吉野大峯の修行の玄義、各霊山での修行の玄義、これらは共通しているものがある。

霊的修行を進めてゆく上で、大切なことは、由緒のある聖地で行をすることだ。
どういうことか説明しよう。古来、山には三身が備わっているという。三身とは、密教の法身・報身・応身をさす。三身はホトケのあり方の三種である。三身即一という言葉があるが、山にはそれが備わっているのだ。三身=山神なのである。山は大山積神が司掌されている。

必ず修行場としての山には、神人・仙人・佛仙と呼ばれる方々のご証跡がある。
具体的な場所や逸話が残っているのだ。例えば、記録で残っている場合は、残した人もまた神人であったりする。心眼を研ぎ澄ましていると、文字や伝承のむこう側にある真実が自ずから判然としてくる。

経験上、逆もある。或る山に真剣に通っているうちに、その山のご神霊が教えてくれるというものだ。
人の口伝てもあれば夢告もある。とにかく結果は同じで、その場の守護者の名と背景がわかる、礼拝法がわかるなどの特徴があるのだ。

神人や佛仙が、修行した場所は大切にしなければならない。
不浄の者は、きちんと清めてから場にゆくことである。そうでないと冥罰を蒙る。
であるから、必ず結界を張り、護法神を供養し、法楽を捧げる。チベットの密教をやる者ならば、セルケムやガナプジャ、サンチュー(チベット式柴灯護摩)などをやる。日本ならば、修験の護摩法を行い本尊、神々、精霊を懇ろにご供養申し上げる。

現在、わたしが「独り行」を認めているのは、3名程だ。滝行お世話役のうちの2名。
あとは治療家の名人。これだけである。ご本人に許可しているから本人はわかるであろう。これらの方の修行の折には、わたしが遠隔で祈念している。当地にゆき、一緒に修行する場合には及ばないであろうが、悪い事はない。殊にわたしが一度でもその場所に行っておれば、遠隔の法の力は強くなる。わたしから修行の指導を受けたい人で、許可なく勝手にやっていた場合、その方は問答無用で出入り禁止、破門とします。サンガが乱れるので、今後は徹底します。修行というものは、やればいいというものではないということです。

吉野大峯その他の霊山は、多くの神・仏が顕現した聖地であり、多くの聖者が昇天した聖域なのだ。

御岳山もまた、そのような聖地だ。そう、一種のアンテナのようになっている。これは肌身で感じるより他ないものだと思う。

御岳山は、御岳神社にクシマチノ神・スクナヒコノ神・オオナモチノ神・大口真神が祀られ、天狗岩には、桜坊大天狗と小天狗、綾広の滝には祓戸神、奥の院には、日本武尊が祀られている。七代の滝で修行したのは松本道別、桑田道教、野口晴哉、川面凡児、その他大勢。根本の神は、広国押武金日尊。その他、山中で昇天した大中臣国兼がおられる。

これらの神々、諸尊と感通する、感応道交する。大宇宙の気、山の霊気を己の中に統合し、人体放射能を構築することが土台である。之が出来れば、どんな法でも即、奥義に到達するであろう。

金剛蔵王大権現を念じる
       金剛蔵王大権現を念ずる



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