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  • 2012.12.01 Saturday
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GWの修道巡礼【風雷益の卦を得る】

【風雷益;チャンスと協力】

今年のGWも修道巡礼を果たす。

一つは古神法の霊地を踏破する宿願を果たすこと。

二つ目は密教の完成に至る道を進むこと。

三摩耶に5種あり。

完全な成仙に至る其の為の設計図というか、道程を知る仙縁を得た。

これは修道者でも極々僅かの者しか知らないことであり、それを記した秘伝の書を遂に手にした。大枚をはたいて得ることが出来たのである。

個々の大体の技法は分っているのだが、要は正確な修道の順序が分らなければ、益を得ることはできないし、それどころか逆に害が生じてしまう。

土佐高知の神山の山系にゆく直前に、このような御啓導と思われることが生じたのは、実に不思議なことだと思う。

一つだけ言うと、あの整体法の創始者;野口晴哉氏は、この方法を或る筋から学んでおり、体得していたということである。

しかし、この方法を得たとしても、『成就者は万人に一人』だと先師先達は明言されているのだ。

だが、人間として生まれて、内容を知ることが出来ただけでも恩頼(みたまのふゆ)である。

今回は弘法大師空海ゆかりの地(室戸岬など)にもゆく。

わたくしは恒例の易占を立てた。

『風雷益』の卦を得る。

卦辞に、
『益。利有攸往。利渉大川。(えきはゆくとこあるによろし。たいせんをわたるによろし。)』とある。

大いなるチャンスあり、しかし協力をしなければいけないとする卦も出ている。

キーワード(鍵言葉)は、『チャンスと協力』である。

改訂版 金山の説法【有暇具足が無限でないことを知るべし】

◎有暇具足が無限でないことを知るべし

このことを
 声を大にして言いたい。

人間、ご縁のあるときにやらなければダメなのである。

人というのは、命がまさに風前の灯であることを、理解していない場合が多い。

例えば、ここに貴重な書籍があるとする。わたしなどは、若年から本に関わっているから、この書は、こういう部分が貴重なのだということはよく知っている。しかし、その以前に何かを学んでいると、逆にその知識なりが障害になって、先入観なども含めて壁になってしまい、いつの間にか、そういう貴重書が世の中から消滅してしまうということがしばしばある。

そして今になって、収集したりしている。実に無駄骨のくだらないことだと思う。

先入観や必要のない知識を交えないで、平等冷静に判断することは中々至難の業だ。

昨日、わたしの実家の近所の女性が亡くなったことを母から聞いた。その方は、わたしの母とはご近所で仲の良い人だった。約10年前にわたしの実父が逝ったときに、わたしを励ましてくれた、とても気立てのよい、さっぱりした人だった。

その時のことを昨日のことのように思い出す。そのご婦人の子どたちは、私やわたしの兄弟とみな同級生で、旦那さんは好人物だったが、15年くらい前に亡くなっており、彼女は今年で70歳だったという。

10年前のわたしの実父の葬儀のときには、彼女が10年後に死ぬという事は想像がつかなかった。だが、現実には、こういうように時間は過去現在未来へと絶えまなく流れ、諸行は無常なのである。

形あるものは必ず滅してゆくのである。

時間には限りがあり、すべては無常であることを、よく認識しなければならない。わたしのもとに来ている門人はこのことを、よくよく自覚しなさい。

時間は過ぎ去り、みんな順次あの世に旅立つ。自分も周囲もどんどん変化してゆくのだ。

ご縁のあるときに、やれるときに、やるべきときにやらなければ、修行なんて出来やしないのである。

死の直前に後悔しても、やろうとしても間にあわない。みんな『有暇具足』の貴重なことを知れ。人間として生まれた幸運を心から自覚するのだ。

一日一日、やるべきことをやってゆく。

分らないことがあれば、自分勝手な判断をせずに、虚心坦懐になって師匠に教えを仰ぎ、拝聴すべし。

そして師匠や法友に、依存(あまえて)して、自分のどうにもならない感情を吐き出し、ぶつけてはならない。そういうのは、師匠や法友を『ゴミ箱にしている』ということに等しいのである。

解説;タントラの真髄【亀台九霊金母真伝を伝授】

4月22日、亀台九霊金母の真伝を伝授した。

また、『出離の法』を再び解説した。

亀台九霊金母は、西王金母であり、霊力絶大の神真である。この神真のご加護を受けることで、修道は急速に進む。

口伝も交えて解説・伝授した。更に御真言の声明を示した。よく世間には、密教とかタントラとか神法などといい、自己宣伝する輩が案外多く存在するが、一番ダメだなと思うのが、声明が下手で、音が外れているのである。声色も慈悲がなく、身体や気・心に響かないのである。そういう人から教わってもダメである。

人相や声に慈悲がなければならない。

出離の法から、帰依に至る道を示した。また、タントラの深い教えを解説した。

午後からは個人指導を行った。各人と相対して心に流れ込んできたことを原簿に記している。必要な時に、これは指導に用いることにする。

その後、河原に行き、先達たちと『金剛の気合』を修練した。

実は、この日ほとんど一睡もしていなかったが、気力が充実していたので、ヘタることはなかった。

 

わたしの森にて【自然との統合;真髄を修行する】

◎真髄の修行


この『わたしの森』で修行した

修行や修道というものは、帰依心と慈悲の心によって支えられているのである。慈悲の心とは、菩提心のことであり、これには世俗の菩提心と勝義の菩提心がある。

しかし本当の帰依のないうちは、本物の菩提心は出てこない。ここに修行の一番の難しさがあるのである。

この稿でいう真髄の修行とは、そのことではない。修行法そのものの中での真髄という意味である。それなりの修行者になれば、必ず真髄の修行法というものを保持している。

それを基にして、一日24時間を修行にしてゆくのである。この意味がお分かりであろうか?

今日は「わたしの森」と名付けた森林にゆき、自然のエネルギーと一つになり、統合してゆく修行を行った。やはり通常は外界と認識される環境を修行し易いように調整することは大切である。

要は、大都会の真ん中よりも、(修行するのに)ふさわしい環境を得れば、修行がし易いということである。それには自然の中が一番よいのだ。

周りに普通人がいるとか、騒音がうるさいとか、やたらに虫がいるなどの環境では修行はしにくいのである。安全確保や邪魔を避けることが第一である。思う存分にできるようにしなければいけない。

例えば、気合法の鍛錬などでも、人家のあるところでは無理だ。工夫が必要である。よろしいか。わたしは何らかの形でこの30年毎日の修行というものを欠かしたことがない。いまでは24時間を修行としているのである。わたしのもとにいる修行者すべてが、そうあることを望むものである。

この日曜日には、先達衆は許可を得て修行に出かけた。無事に鍛錬を積まれたとのことである。また他にもお滝を頂く修行をした人もいる。そういうように皆、工夫して修行を重ねている。

滝の指導を開始しようということで決意して以来、まもなく3年になろうとしている。今後は『滝行法部』が発足するので運営の一部分がそちらによって為される。すべてをわたくしがやるわけではない。時間というもの、状況というものは常に変化してゆくのである。

わたくしもまた修行者なので、自分の修行をもっともっと積んでゆかねばならないのである。
その為には、時間や財貨が必要なのである。空間的にも余裕というものがなくてはならないのである。これは修行してゆく上での現実である。

また、体力・健康も正常でなければならない。心も体によって支えられているからである。

もう4月半ばです。まもなく5月。どうですか、この時間進行の早さ。一日生きたという事は、一日死んだ、死に近づいたということです。死ぬのは当たり前だが、逝くときまでに為すべきことを為してゆく、あなたはそう望んではいないのですか?

 
森の或る樹の穴(入口のよう)   こういう感じの主(ヌシ)がいるのではないか!!

でんでんででんでん♪武勇伝♪武勇伝♪【摂受と折伏について】

武勇伝【摂受と折伏について】

あなたは仏教の教導の方法に、摂受と折伏があるのをご存知か?

この導き方を明確にしているのは日本の仏教である。
しかしながら、仏教の開祖である釈尊の言行にも散見している。人間には多種多様なあり方があるのでしょうが、教導することを追求すると、2つの方法があるということである。

摂受と折伏の典拠は、「大日経」や「勝鬘経(しょうまんきょう)」にある。「勝鬘経」は聖徳太子が国家鎮護の三経の一つとして示したものである。

「勝鬘経」では「我得力時。於彼処見此衆生。応折伏者而折伏之。応摂受者而摂受之。何以故。以折伏摂受故令法久住」と説く。

折伏(しゃくぶく)とは相手の間違いを厳しく責めて「破折屈伏(はしゃくくっぷく)」させることである。「強情我慢」の角を折るのである。鼻っ柱を折るようなものだ。この教導は「智慧の門」であり、密教的には不動明王のお姿ということになろう。憤怒の智慧の炎を背負うたホトケのお姿だ。

摂受(しょうじゅ)は相手の間違いをいったん容認して、穏やかに説得しその間違いを正していくことをいう。悪人を折伏し善人を摂受するというのである。この方法は観音菩薩やターラ菩薩の慈悲の相で表すことができる。すなわち「慈悲の門」である。

この二門は仏道の大綱であるとされ、くり返すが「折伏を智慧門」、「摂受を慈悲門」に配すのである。

殊に立正大師;日蓮聖人は、折伏を主に教導の方法として推し進めた。日蓮在世の当時、日本国を謗法(ぼうほう)、)と定め、聖人は著書;開目抄(かいもくしょう)の中で「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品(あんらくぎょうぼん)の如し。邪智謗法の者多き時は折伏を前とす、常不軽品(じょうふきょうぼん)の如し」と記し、教導方法を明確に定めた。

(※「謗法(ぼうほう)」とは、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略語で正しい法を謗る(そしる)ことをいうのである。「法華経安楽行品(あんらくぎょうぼん)第14」「法華経常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつぼん)第20」が正確である。)

もう随分と経ってしまったが、20歳頃のことだ。大雪の降る日の出来事だった。

その前夜、親戚のTから電話があった。彼女は従兄弟であり、5歳年長だった。大変賢い人であり、電話など一度も無かった。

話を聞いてみると、明日『仏教セミナー』があるから来てくれないかというのだ。

わたしは心に頷くところがあり、「ははん、これはS学会による折伏だな」と直感した。そこで期するところあり、わたくしは品川区の指定の場所まで出かけた。広い邸宅に案内されて、そこの家主と思われるオヤジが偉そうに出てきた。そして次々に信者が集まってきた。15〜16人あるいはそれ以上いたかも知れない。完全に包囲された格好だ。

案の定、折伏だった。S学会は、時代遅れの独善的な解釈で、折伏をする団体である。

わたしもいずれはこういう時が来ると思っていたので、S学会の歴史やあり方、法華経信奉者特有の「五時教判」は研究していた。また「折伏経典」という独自のものがあるので、それも極秘に入手して研究していた。

彼らの論法は予測通りであった。それ故にわたしのほうは、難なく彼らの屁理屈・暴論をかわすことができた。その上、彼らは子供だと小馬鹿にしていた相手にケチョンケチョンに、蹴散らかされたわけで、件(くだん)のオヤジも、まさしくホウホウの体(てい)であった。

すると或る男性が『折伏経典(しゃくぶくきょうてん)』を持ち出してきたので、すかさずこう言った。「こちらは、20歳そこそこのガキ(子供)で、そのガキが丸腰なのに、そっちは折伏経典ですか、では問うが、折伏というものの典拠を述べてください。日蓮聖人は折伏について、どの著作で、どのように述べているんですか?それが今すぐ答えられるのなら、それ(折伏経典)を使ってもいいですよ」と。

そういうと、誰も何も言わなくなったので、まあわたしの話を聞いてくださいと言って、仏教の正確な歴史を述べた。そして自分の考える信仰のあり方や、わたし自身の法華経論をも述べた。

用をたすために少しばかり席を立つと、その連中はこういったそうである。「あの若者はすごい。そのへんの大学の先生よりも、ものを知っている。ほんとうに驚いた」と。

わたしが再び座に着くと、彼らは諦めた口調で、今度は本部から教学のできる人を呼ぶからまた来てくれと。わたしは笑ってこう言った。「みなさんご熱心ですね。でも大勢で一人をやっつけるのは趣味としては悪趣味ですよ。まずい食べ物を食べさせるお店にお金を払ってゆきますか?誰もゆきませんよね。まずくて不愉快だからです。だからわたしはここには来ません。おいしいと思う方だけくればいいんですよ」

そこにいた大人たちは全員、あいた口が塞がらないという体であった。

大雪の帰り道、従兄弟のTは言った。「お願いTKちゃん、入会して」と。わたしは彼女のために、こういった。「Tさん、信仰というものは頼まれて入るものじゃないよね。そのことは貴方もご存知でしょう。この大雪の中、わたしは親戚の貴方が仏教セミナーがあるというから来た。でも結局は折伏をやられにきた。このわたしの気持ちがわかりますか。貴方が自分の宗教がすばらしいと言うのなら、どうして近くにもあるから聞いてみて、というように言えないのですか?わたしを入会させると何か自分のポイントでも上がるんですか?宗教を説くというのはそういうことではないでしょう。二度と来ませんからね」。情に於いて忍びなく、彼女の秘められた懊悩が分かるだけに辛かった。

補足しますと、S学会の連中との問答の時に、わたしは「赤いジャンパー」を着ました。身体を大きく見せるために。正座になり、背筋を伸ばし、手を卓袱台のうえの広げて。目線、声の大きさも気をつけて。これが、でんでんででんでん♪武勇伝♪武勇伝♪なのかなぁーとは思いますが・・・。

(※『でんでんででんでん♪武勇伝♪武勇伝♪』は若手のお笑い芸人オリエンタルラジオのネタのひとつ『武勇伝』のときの、始めと終わりの歌です(笑))


相模の桜【トゥン・ツォクとお花見】

相模の桜の花見で一休み 


相模の桜(1)

相模の桜(2)

菜の花畑
  
弟子のIさんからの写メ(大岳山から富士を望む)   (誰でしょう?)

お花見は盛大なほうがよいので、何処かで皆さんで合流しようかと考えましたが、お互いに気を遣うのも面倒でしょうし、家族サービスとか、もろもろの用事もおありでしょうから、開催はやめました。

どなたか奇特な方に、この方面の仕切りはお任せしたいと思いますね・・・。これは冗談ですが(笑)

弟子のIさんが、今日は朝から大岳山にゆきました。身心の鍛錬のためでしょう。わたくしは報告受けて気合法の鍛錬もお勧めしました。しかし、大したものです。そして彼女が撮影した写メが送られてきました。大岳山から望む富士山です。写真の真中あたりに見えます。Iさんありがとう。

わたくしはというと、相模の桜をお花見です。一休みです。気を遣わないで過ごすのは一番楽しいですね。

密教の専門書とお弁当など一式持参してのんびりしました。

途中の自然の中で『トゥン・ツォク(一座の修行)』をしました。浄化の九呼吸、五大の浄化(※五大とは、空・風・火・水・地)、三根本への帰依・発菩提心、グルヨガ・金剛の歌(三昧の修行)、回向という具合です。

花の命は短いといいますが、人間の一生もノサノサしていると、あっと言う間に終わってしまいます。時間はどんどん過ぎてゆきます。ほんとうに儚いものです。

一昨日、真新しい学生服を着た中学生を見ました。やけに服が大きくて、それでいて身体が小さく、顔が子供なのです。おそらく中学一年生になったばかりの子供たちであり、今年度で13歳になるんでしょう。つい数か月前は、小学生だったわけです。

その子供たちを見て、つくづく思いました。自分は、あの子たちと同じ年齢から既に35年が経っているんだと・・・。

あと35年経ったら、わたしはおそらくこの世にいませんね(笑)。仮に居たとしても老人であり、手も足もでない体(てい)でしょう。

皆さんも、人の時間を奪わないようにしましょうね。時間は一番貴重なものなのですから。

自分の責任は自分で持つんです。自分の境地というものは自分で拓くんです。

ですからわたくしへのご質問や相談は月に一度二度の法話会・個人指導会などでお願いしますね。特例も認めますが、それなりの動機や理由が必要です。

わたくしは20歳そこそこで一番初めの師匠に出会いました。その方はわたくしにこう言いました。『(修行を)やってやってやりぬいて、わたしが(おまえに)来てくれという程の弟子になれ』というものでした。

道を修めるということは、良い弟子に成ることなんだと、その時にわたしは悟りました。以来、縁ある先師先達をすべて師と仰ぎ、教えの真髄を掴むことを根本にして歩んできました。

中年まで俗に染まって生きてきましたが、ようやく脱する機縁が生じてきました。

増上慢(※『唯識大意』にいう、七慢の一。慢心でもこの上ない慢心のこと)ではいけませんが、増上欲で臨むのは善いのです。(※増上欲とは、無上正等正覚=仏智を得ようとする心のこと)

わたくしは、増上欲を更に発起して、歩んでゆくことにしよう、桜の花を見ていて、そう強く念願しました。

ここ数年のうちに修行の土台堅めをし、知りうる聖地の巡礼などもしてゆこうと思っております。夢はふくらみます。花の蕾のように・・・。

金山の説法【神通力について考える(2)】

神通力・神通について考える(2)

帰依仏 帰依法 帰依僧

昨日は、三明六通について述べた。もう少し説明しよう。

漏尽通以外の神通力をチベットでは、ンゴンシュという。主体と客体の再統合を通じて5つの『高度の知覚』が出てくる。これは、それ自体を追求するべきものではない。そうあらゆるラマ(上師)が述べている。

大切なことは、一切衆生も含めた全ての対象が、自分のエネルギーの顕現だということを理解し、さらに実践して、体得することである。法=教えを実現するとは、こういうことを言うのである。

二元論に入っている、妄想顛倒している思考で、空中浮揚するなどという考えは、カルト的な考え方である。そんなことよりも、慈悲を実践することだ。

神通という言葉には別の側面もある。

『至誠神通』あるいは『神通在信不信(神通は信と不信とに在り)』という先師先達の言葉があるが、神に通じる、自分の信仰心が神にまで通じるという意味での、神通という語義もあるのである。

この場合は、『信』であり、『義』の心をもって誠をつくすことを言っている。神祇のほうでは『義の心』であり、仏仙のほうでは『大菩提心(慈悲心)』ということになる。どちらも同じものを或る側面から表現しているにすぎない。

大切なことは、謙虚であり、誰に対しても平等であることだ。人のえり好みや好き嫌いでの思考・判断があるうちは、菩提心の真っ逆さまということである。

例えば、わたくしが『火の禅定法』を教える。すると1回か2回で「わかった」と言い出すのである。本当であろうか?

わたくしはこの種の発言に疑問を呈する。何故かというと、火の禅定なり、『火界定』というのは、不動護摩法をすくなくとも300回以上やっていなければ感得できないし、加行すらやったこともないものが、言える筈がないのである。

わたしが教えているのは、火の禅定のための基礎法であって、それそのものではない。第一、火界定というものが、禅定のなかでどういう境地か分かっているのだろうか?非常に明確なのである。何となく火炎の観想ができたくらいで、そう発言しているのかもしれないが、そういうのは法や師匠を軽んじている発言である。

そのような安易な発言を反省するべきである。それをしないと先が出てこないし、進歩がない。自戒を促すものである。

神通・神通力という場合、その発現の(基礎の)心は、『義の心』であり、『菩提心=慈悲』だということを、諸兄は腹の底まで入れておいていただきたい。

自分の仲間、法友を平等心(逆が好き嫌いの心)・慈悲心で見ることができないような者に、道などないし、神通などあり得ない。

(了)

川島金山 謹書
 

金山の説法【神通力について考える(1)】

神通力および神通について考える(1)

帰依仏 帰依法 帰依僧

修行を進めてゆくと、ひとつの神通力が備わってくる。

法華経に於いては六大神通力という。仏教では『三明六通』という言葉があるが、主体になるのは、『三明』と言われる能力(神通力)である。

『三明』とは、漏尽通(ろじんつう)、宿命通(しゅくみょうつう)、天眼通(てんげんつう)のことである。漏尽智(ろじんち)、宿命智(しゅくみょうち)、天眼智(てんげんち)ということもある。通力としての名称と智慧の名称があるわけだ。

『三明』で主体になるのは、『漏尽智(ろじんち)』である。『漏』とは煩悩の異名であり、つまり煩悩を滅尽(めつじん)するホトケの智慧をいうのである。

宿命智のよって過去を知り、常見という邪見を断つ。天眼智によって未来を知り、断見という邪見を断つ。最後に漏尽智でもって煩悩を断滅してホトケとなるのである。

仏(ホトケ)とは、輪廻から完全に解放(解脱)された者をいう。

だから三明が解脱の智慧なのである。修行者がこれを体得するべく修行してゆくことは、必ずしも邪見ではない。しっかりとした帰依と大菩提心(大慈悲心)が確立されているのならば、逆に必要なことである。

いや、菩薩ならば三明だけなくその他の三神通も必要な能力である。

三明以外の神通力は、他心通(たしんつう)、天耳通(てんにつう)、神足通(じんそくつう)である。

要するに神通力というのは、主体と客体を一味にした境地に生ずるものであり、漏尽通以外のものは、副次的なものだとも言われている。

身(肉体)・口(言葉)・意(こころ)という三つの境界をそれぞれ浄化してゆくのが、修行の根本だが、その三つの領域に於いて『一味』になると出てくるのが、先の三明以外の神通力である。(※一味とは、主体と客体が全く統合されている境地をいう。ロチックともいう。)

他心通は、意(い)。天耳通は、口(く)。神足通は身(しん)という具合に当てはまる。

お釈迦様は三種の神変といって、説法神変、教誡神変、神足神変ということをしばしば行われた。それらを駆使して教化したのである。

説法神変は天耳通、教誡神変は他心通、神足神変は神足通というように分類される。

わたしなども多少はこういう能力を護持している。講座講義の時などに、声なき声を聞く、これ天耳通、『接心』個人指導で心に触れる、これ他心宿命通、滝中において水量を変化させ、金剛の気合でもって、同行者の身体に特別な響きを与える、これ神足通に分類されるものである。このように教化するには、必要なことなのである。

だが、神通力を駆使するのは教化して衆生を導く時だけである。

凡夫のままの二元論にズブズブに入っていて、さらに法友だろうが何だろうが、(人間の)好き嫌いで判断する。そういう悪いクセをいかんなく発揮しているものに、神通力云々など言う資格はないのである。『増上慢(ぞうじょうまん)』も甚だしい。そんな人間には、神通力の『じ』も決して身につかないであろう。

空を飛ぶような大神通力を体得して、眼にもの見せてやる、というような馬鹿げたことを師であるわたくしの前で平気でのたまう大バカ者も時々いる。

いままではそういう馬鹿なことを言っていても、馬耳東風に聞き流して相手にすらしなかった。しかし今は違う。仏法の師としてのわたしはこういう発言を放置しておくわけにはいかない。

また、師匠を推し量ったり、疑問を呈するなど、言語道断である。こういうことに身に覚えのあるものは、懺悔しなさい。そんなのでは決して解脱はできません。道を教えていただく師匠に対して、タメ口をきいたり、生意気を言ったり、推し量るなど、すべて悪業として最悪です。解脱の徳の反対であることを知らないといけない。

本来は、師に対して座る場所から、戸の締め方、話す時の態度、先生に眼を合わせることの是非など、師に対する作法は厳密にある。

平気でわけのわからん妄想を口にする。今後はこういうことは全て厳禁。

何人たりとも二度同じ事を繰り返したら、即刻に破門・出入禁止とします。

(つづく)

金山の説法【真の仏縁を得る方法とは】

如何にして真の仏縁を得るのか?

帰依仏 帰依法 帰依僧

現在『出離』の解説を行っているが、このことの理解と修行を経ずして、仏教や密教を修行したことにはならない。

たとえ神祇のほうの修道をしても、ものにはならない。いつも言っている通り、正神界からの転肉者は別であるが・・・。

人間として生まれたからには、人間としての修道・修行の過程というものはあるのである。

人間としてのあり方のなかで、最高度のあり方は菩薩になることであろう。生きとし生けるもの全てに自分の積んだ功徳を回向し、一人残らず衆生が済度されるまで、自分は涅槃に入ることができるのに入らない、それが菩薩という存在である。

我々は五毒(貪・瞋・痴・慢・疑)にまみれており、自我意識の欲貪(エゴ)に心は満たされている。そんな存在が、菩薩のような心には成れないのである。そう思っていると自認するものがあるならば、それは増上慢、戯論妄想である。

我々は菩薩の『ぼ』の字にも成っていないのである。

では、菩薩の出発点はどこからはじまるのか?

それは『帰依』『四つの出離』『発菩提心』の修行である。この基礎を充分に修行したのならば、輪廻から解放されることは半ば出来たも同然である。

修行の要諦は、『帰依・菩提心』『三昧(正行の修行)』『回向』にあるのだ。この三つのない修行はあり得ない。

これらは一言で言って『信心』である。弘法大師は、三種の菩提心を説いており、この総体を『信心』なのだと言われている。帰依し信心が完成したら、すでに『成仏』しているというのである。

輪廻に於いて、唯一の護符は『信心(帰依・菩提心・三昧耶戒)』である。これが身に備わっていることを真の仏縁というのである。

このことは仏教・密教の修行に於いて最高の口伝であり、秘訣である。本当に真剣に修行に打ち込むよりほか、これを体得することはできない。これができれば後は自在であり、時間的な問題だけである。

ここまできてはじめて菩薩の『ぼ』の字を目指しますと言えるのである。

菩薩になるくらいでなければ、最高正神界に至ることはできない。

真の仏縁とは何か?とのご質問が出たので言えるところまでは述べた。

昨日、2名のことについて述べたが、それとても他の方々と紙一重なのである。全員、『出離』の修行をひたすら行うようにしていただきたい。

名古屋在住のAさんが3月31日に来院されたが、わたくしは説法座を用意し、如法衣を着して、帰依を与え、『出離』の講義をした。その上で、個人指導をしたのである。もちろん例外なく言うべきことは言わせていただいた。要は、たった2時間弱のために、新幹線に乗って来られたという事実である。

教えを乞うというのはこういう態度をいうのである。これなくして教えの扉は開かれない。

金山の説法【正しく理解し実践することの難しさ】

帰依仏 帰依法 帰依僧

先月25日に、個人指導および『出離』解説をした。そして実践の方法を教授した。

その後、何ら問題が無いようであり、一つの質問もこない。

わたくしに学ぶ修行者たちは出来が良く、上品・上根の修行者だから、一度聞いただけで全て了解してしまう、そういう一切智者なのであろうか?

仏教では、上品・上根とは非常に能力の優れている修行者のことをいう。

仏の教えを述べる場合、必ず『勧請・随喜』というものがなければいけない。できれば『七つの項目』が整えられる必要がある。

こういうことも一切智だから既に分かっているのであろうか?

こうなってくると、師匠というものは必要がないのではないか?

はじめから、一切すべてが分かっているのだから・・・。

率直に言うと、誰一人も真の仏縁を有しているものはおらなかった。

わずかにT君だけが、梵の行いを有している。あとわずかに有るのは、Uさんに可能性がある。その2名も輪廻の中では、風前の灯の如くである。

このことは、わたくしにとって大変にショックな出来事だった。

実際のところは、思い違い、怠り、小乗、知ったかぶり、増上慢、妄想、自分のことばかり・・・等々。真実は、こういう具合である。まさに末世の衆生である。

一番よくないのは、師と対等であるかのように知ったかぶりをすること。明言しておくけれども、そういうのは100年経ってもわたくしと同等の境地にすら到達できませんし、本当に教える気が失せてゆく。

わたくしとしては、心から自分より才徳のあるものを求めている。わたしを踏み越えて大成する人材の出現を念願している。だが、そんなことは及びもつかない状況のようである。

だから、自分の修行だけをしたほうが良いということで、予定すら出さないでいる。今までだって、わたしは一人で修行してきたのである。

仲間ができたからといって、妥協して言いたいことも言わなくなるほど、わたくしは老いてはいない。誰とも徒党を組まないことをもって、誇りとしている。

一つ言っておくと、『接心』というものは、あなた方が想像もできないほど色々なことが分かるものです。たったの20分だったとしても・・・。

とにかく『増上慢』を起こさず、正しい理解と正しい実践で仏縁を深めてほしいと願うものです。あなた自身のために。

菩薩の心、菩薩の家系にすら入っていないのに、片鱗さえないのに、途方も無いことを口にしないこと。上のこと全て厳しく戒めておきます。


川島金山 厳書


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