9月25日(日)第21回霊学講座が行われた。
ブログを書き始めてから3年が経とうとしている。
当初は、療法の研究会ということであったが、わたくしの元来の本領が、密教や霊学にあるため、気合法の講習を御岳に於いて行うにおよんで、半ば必然的にいまの流れになってきたわけである。
ここまできて感じることは、来られる人々の顔ぶれの変化である。おもしろいことに治療法や整体法などにこだわっている追求している人間は、意外にも敬虔な信仰心や宗教心が希薄なことだった。おそらく身体というものを物質的にしか見ることができないのであろう。多分であるが、「人間はいつか死ぬ」のだという真理を忘れてしまって、触れないようにしているからだと思う。わたくしはそういうことでは、本当の意味で人間に健康をあたえることはできないと思う。このことは整体法信奉者のよくない部分だと思う。これが三年間の偽らざる実感である。
偉大な野口晴哉先生にのめりこみすぎて、すっかり虜になり、真理から遠ざかってしまっているように見える。そうではないと本人は主張するが、しょせん枠内である。
また整体の先生という人物にもたくさん会った。宗教実践したこともないのに、宗教とは「相互依存だ」と断定する愚か者もいた。実践したこともないのに屁理屈をこねる。また、密教法具の五古金剛杵を平気で独古杵といって講義している方。密教のアジャリでもないのに、密教法具の解説することはできないのだが。整体界というのは、実にいかがわしい世界なのだと思う。
いま吾が会に来ている方々は、可能性がある。素直で信仰心がある。ただ、滝行開始以前から来ている人は、修行ということについて障害があるとみなければならない。修道してゆくうえで、決定的に信仰心が欠落しているのである。これでは、修行を全うすることができない。その証拠に修行を正確に行ったり、理解を深めることができていない。すぐに「気」だの「丹田」だのいう。
そういう輩は秘法の側面すら、師匠からは見せてもらえないことを自覚するがよい。腹を据えて、信仰心を養うようにしないといけない。だが、信仰心は生まれ持ってのものであり、前世の賜物なので別に無理はしなくてもよいと思う。地道に何十年でもやり続けるしかないであろう。ご縁があればわたくしが教授するだろうし、また別の御方にご縁があるかもしれない。
今回は、霊学講座に先立ち、稽古会を行った。これは、「霊魂の祓い」である。わたしくしが行ったのではない。あくまでも「産土神の掌統」によって行われたのである。人間が人間の霊魂のお祓いなどできるわけがない。一霊を霊止(ヒト)に付与してくださる、産土の神にしかそれはできないのである。
此の洗足の産土には、そのような御力があったのである。今回の「祓いの儀」は、すべて霊界の承認を得て行われたものであり、とても霊威のあるものであった。受けた大多数の方が、特別な体験や特殊な感覚(感格)を得たことだろう。続々と体験談が寄せられている。
その後の霊学講座では、霊光療法の「遠隔法」、禅定法、アチメの法等々についてお話した。また、幽魂安鎮秘詞の口伝を与えた。
手技療法講座では、背骨と月の運行と照応したところの、わたくし独特の手技秘法を、ほんの少し教授した。月の運行と身体に関連づけた教えは、インド・チベット・シュタイナー哲学などにも存在する。しかしそのどれでもないものである。