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  • 2012.12.01 Saturday
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開運天源術【戌・煉の因縁の淘げ】

「煉」(レン)とは、戌(いぬ)の気質のことである。

略して、「レ」と呼ぶ。

この星も、陰気になるが、鬱積するのが特徴である。これは黒星である。
この淘げは難しい。豊(卯)や止(巳)のように素直さに欠ける。屁理屈を捏ね回すのである。

内に怒るのが特徴であり、犬が吼えようと唸っているような姿である。
もちろんお利口さんの犬もいるように、はじめから整っている人もあることはある。

この「煉」が強いと、背ムシになる、髪の毛が縮む、赤毛になるなどの特色が出てくる。

しかし、粘りがあるので、ものを為すにはこの気質は役立つ。

この「煉」の因縁気質の転換・淘げは、そう簡単ではないことを申しておこう。


天源術【酉・堕の因縁を淘げる】

わたしには、天源術でいう、「堕の因縁」がある。
とても強い堕の性質である。堕は智恵星であり、善用すれば天下を益するという。

心を晴れやかにすること、人の為にのみ智恵をつかうこと。これが「堕」の淘げの秘訣である。

多くの「堕」の人は、観ていると、肝心な時に、この因縁を出す。
どのように出すのか?

それは、姿を消してしまうのだ。
「堕」は堕ちると言うことなので、蜘蛛や鳥のように、飛び去ってゆく。結局のところ、ものの奥義には到達することができない。

また、「堕」の気質を自分のためにつかうと、策謀をする、陰にまわって意地悪をするなど、陰気になるのだ。

わたしはこの「堕」の因縁気質が誰よりも強い。そこで、自らの智恵は人の為に使うことに専念した。
カラカラと明るく振舞うように努力した。だから、もともとは陰気なのである。

いまのわたしが、人から見てカラカラ明るく映るとしたら、それは後天的な部分がある。

「堕」の文字の如く、運気は堕ちるのだ。

この気質を持つ者は、気質を淘げて、限界を越えて、その智恵を天下の為に善用してほしいと願う。
未だ、「堕」の因縁を善用した人をこの眼で見たことがない。因縁丸出しではいけないと警告しておこう。 

萬々歳!【皇太子殿下の寿ぎを祈る】

わたしは「霊夢」についてよく語る。
夢(ゆめ)とは、もともと「いめ」といい、古代では「鎮魂」の一つとされていた。
毎年12月には、八十萬魂(やそよろずのみたま)は荒魂(あらみたま)と化す。そこで年末の大祓神事をすることで、和魂(にぎみたま)となる。であるから、正月に特別な初夢を見るというのである。これは古来宮中の行事であったという。

2月13日に我孫子カイロプラクティックセンター開業お祝い禊ぎを挙行した。その次の日に、わたしは「霊夢」を見た。それは「皇太子殿下を護っている夢」であった。全く不思議である。確かにわたしはいつも皇室の弥栄(いやさか)を念じている。だが、殿下のことは考えたこともなかった。

しかし、それは「霊学」を志す者の、常道であると思う。皇室とくに天皇陛下という存在は、特別なものだとされている。このことは「産土の教え」とも大いに関係がある。秘詞に「済世秘呪」 という正神界直伝の詞があり、道士たるものこれを唱えるものだとされている。

川面凡児大人から尾形学而先生に伝えられた「祝詞集」に次のように記されている。

『・・・・・
 皇太子殿下萬歳萬歳萬々無窮歳
(こうたいしでんかばんざいばんざいばんばんむきゅうざい)
 世界神化萬歳萬歳萬々無窮歳
(せかいしんかばんざいばんざいばんばんむきゅうざい)
 ・・・・・
 生魂・足魂・玉留魂、何某常立の命 (雄健(おたけび))
 イーェッ エーイッ (雄詰(おころび))
 ・・・・・』

前後を省略したが、これを『開運発達の神事(かいうんはったつのかみわざ)』というのである。霊学の専門家になりたい方には伝授しよう。(但し、わたしのいう専門家は行・学において、かなりの水準が要求されるが・・・。)

また本田親徳大人(ほんだちかあつうし)は、「神傳秘書」において、こう述べている。
「鎮魂の法は天授の神法にして現世神界の学則なれば、上は天皇の治国平天下の御事よりして、 下は人民修身斎家の基本、続て無形の神界を探知するの基礎なれば、宜敷朝夕之を懐中しに秘し、事業の閑暇は謹て是を省み之を行ひ、霊魂の運転活用を学習すべし。・・・・」

いよいよ我が会も、上には天下安寧を祈念し、中には自らと同志の道の進捗を念じ、下にはすべての人類の霊性開眼を願う時がきたのである。それは天津神・国津神・八百萬神・産土神・啓導神真たちの願いでもある。その願いに同じうして、まさにわたくしたちも「比古神・比女神」として仕える道が開かれるのだと思ふ。その一事が、「産土神より与えられた使命」であるといえよう。

神傳禊流・筑紫の神人【写真集;川面凡児大先生】

takibadeno
瀧場での川面大先生


海での禊ぎに臨む川面大先生

 
川面凡児大先生の近影


運を良くして道を成ずる秘法【太上眞人桃板斬三尸之寶符の伝】

桃板寶符

「太上眞人桃板斬三尸之寶符」という霊験あらたかな秘法がある。
「だじょうしんじんとうばんざんさんしのほうふ」と読む。

霊止(ヒト)の身体内には、「三尸(さんし)」という幽玄なる存在がいるという。修道によって、功を積み神仙と化することができると、このような存在は消滅してしまう。しかし、そう簡単にはゆかない。

有名な「太上感応篇」では、冒頭で三尸について説いている。人の罪科積徳を天に報告するという。また、竈神についても触れている。

これらの幽眞界の実相は、そのままではないけれども、的を得ている。ある秘密の一端を表現していると断言できる。それは「産土神(司命神)」の働きに関連しているのだ。

「三尸」を払壌することなく、そのままにしておけば、確実に支配されて「幽冥」に入ったときに、確実に罪科累積の罰を受けることになる。それをこそ「自業自得」というのである。人は現世である程度の自由をうけているから、このことの恐ろしさが判らないだけのことである。

三尸に対応する秘法はいくつもある。秘呪を唱える方法などだ。ここで紹介する秘法は、非常に優れた法であり、系統(スジ)の良い秘法である。一名「太上眞人桃板斬三尸之寶符」という。

「運を良くして道を成ずる秘符の秘法」として、お勧めできるのは三法あり。そのうちの一つが、この法なのである。あとの2法も、今年中に教授・修験施法したいと思う。

伝承したのは、大江文坡(おおえぶんぱ)という実在した人物である。名は匡弼(まさすけ)、字(あざな)は文坡(ぶんぱ・ふみひろ)で、号は菊丘臥山人、臥仙子などという。世間的には、あまり知られていない人物である。

この法については、昨年9月の「秘伝合宿」において伝授した。受けた方は講義録・テキストなどを見ていただきたい。

秘符を三種類、謹製する必要がある。庚申の夜に眠らずに、秘符を謹製する。
桃の木の板(桃板)に記すのである。
そのまま、明け方まで待ち、謹製した三枚の「桃板秘符」を日の出の太陽の光に当てて、秘呪を9度唱える。伽羅あるいは沈香を切れ間なく焚き、行うのである。
そののち「桃板秘符」を三枚重ねて、五色の糸で結ぶ。
紙に指定の文字を記して、その紙に入れる。清め折が最適である。
その紙折袋に入れた「桃板秘符」を錦の袋に入れて、身に帯びる。
こうしておくと「斬三尸」が実現する。
錦の袋は、各人の納音(なっちん)=五性を、割り出して錦袋の「色彩」を割り出すこと。

納音の割り出し方は、以下の通り。

◎十干の数  甲乙1 丙丁2 戊己3 庚辛4 壬癸5

◎十二支の数  子丑牛未1 寅卯申酉2 辰巳戌亥3

◎五行の数  木1 金2 水3 火4 土5

生年の十干と十二支の数を合計する。五払いし、残りの数で五性を出す。
甲子ならば、甲が1、子が1、合計2なので、金性になる。
癸酉ならば、癸が5、酉が2。合計7で、これを五払いして、2となる。ゆえに2であり、金性となる。
甲辰ならば、甲が1、辰が3で、合計4。4であるから火性である。

(錦の袋の色) 木性=青色 火性=赤色 土性=黄色 金性=白色 水性=黒色

詳しくは、施法修験者に教授する。
桃板の欲しい方は連絡されたし。数に限りあり。
桃板は、有徳の赤塚先生のご寄贈によるものです。資格の一つは秘伝合宿参加者。
 

御岳懺法【ある女性修行者の反省行】

御岳懺法【ある女性修行者の反省行】と題して、思うままに記すことにする。

御岳懺法とは「みたけせんぽう」と読む。懺法とは、いわゆる懺悔の方法であり、主に仏教のほうでいう修行方法の一つである。この原型は、お釈迦様在世の当時も存在していた。戒律にも重軽があり、軽いものを犯す場合がある。その場合、布薩(ふさつ)といって、特別な日に懺悔するのである。

懺法には、「観音懺法」「法華懺法」など幾つかの種類がある。この懺法によって過去世からの悪業因縁を浄化するということがあるのである。チベットなどには「三十五仏」の懺悔法というものがある。

仏教・密教には、サマヤ戒をはじめ大乗菩薩戒・五戒など様々な戒律がある。そして誤って犯してしまった場合の便法がある。修復するための方法である。

例えばチベット密教における「ガナ・チャクラ・プジャ」 は壮麗な方法だ。サマヤ戒を修復すると共に功徳を一気に積集(しゃくじゅう)するのである。非常に優れた方法である。

戒・定・慧を三学といい、戒律を遵守し、正しい瞑想をし、さらに本当の智慧によって解脱する。これが仏教の修行方法だ。この三学に、「懺悔の方法」も加わり、いまひとつ「福を得る方法」も加わる。およそこれらの5つが仏教の修行方法といってよい。

わたしが今日テーマにしているのは、別に仏教の方法ではない。わたしが思ったことを、そのまま表現すると、「御岳懺法」ということになるのである。

先般、わたしは「山の修行」においてのあり方を書いた。滝行公募中止ということを発表した。参加者で思い当たる人もあろうし、反省のポイントがずれている人もいると思う。

その中の一人の女性修行者が、先般13日(日)に、積雪の御岳へ行ったそうである。一人で果敢にも山の中を歩いたそうだ。七代の瀧、天狗岩と懺悔の祈りをしてきたのだと思う。彼女は、気がすまなかったのであろう。このことが果たして、あり方として合っているのか間違っているのか、わたしにも分からない。だが、一ついえるのは、わたしが同じ立場であったら同じ事をしていたということである。

わたしが評価するのは、一人で行ったことだ。積雪の山中をゆくのは多少の危険と勇気がいる。そこを越えて一人で行く。これは「懺悔の修行」であると思ふ。

仲間と打ち合わせしてゆくのではない。相談して、「ゆこうよ」などと言ってゆくのではない。自らの意思と責任においてゆく。わたしは彼女のようにやるのが良いと言っているわけではない。同じようにやれば良いというものではない。

大切なことは、言い訳をせず、人のせいにせず、黙々と向き合うことだ。自らのあり方を自然に問うのだ。護身の方法は、最低でも教えている。それらを密用して修行する。

本日、彼女の操法をしたのであるが、納得している意識が背中に現れていた。その背中を感じ取って、わたしはこれは「御岳懺法」ではないかと考えた。そしてなんだか嬉しくなった。

今日も、わたしは言うべきことを言った。誰にでも、分け隔てなくモノを言う。時に、素直に指導に従わない者もいる。わたしは、産土の大神様からの与えられし使命を自覚しているから、只々時を待つだけである。だから、わたしは第一に、素直に懺悔反省する修行者を愛でる。真剣に育てようと思う。

師と弟子の信頼がなければ、そんなものは何の役にも立たない。師に対して、屁理屈、口ごたえをする、意見するなどはもってのほか。師匠は、霊体二途に渡ってカルマを引き受けもするのだから。正しい心得で接するべきだと思う。

神祇感応せり【祝!我孫子カイロプラクティックセンター開院す】

筑波山不動の滝

昨日(2月13日)予定通り、筑波山の白滝神社にて「我孫子カイロプラクティックセンター(http://abikochiro.jimdo.com/)開院お祝い滝行禊ぎ」を行った。

白滝神社には、2つの滝場がある。「白瀧」と「不動の瀧」である。ある「霊書(霊的書物)」の啓示によって、この2つの瀧が江戸時代には修験山伏の行場になっていたこと、「幽真界(山人界)」での30日間の寒行が、此の場所ないし「日光の華厳乃瀧」で行われることなど、「禊ぎ会」の前夜に知れたわけである。

このことは重要な意味を持つ。我孫子カイロプラクティックセンター創設の地に赴いたその日(昨年12月)に我々は白瀧で初めて修行したからである。我孫子カイロプラクティックセンターと「筑波山白瀧」は切って切り離せない「霊縁」があるのである。

高根大神御尊形

件の「霊書」によって、啓示の主がどなたなのかはっきりした。それは人間界と正神界を橋渡しして、人間が道を得る(得道)手助けをしている神真である一柱の神であったのである。

雪の残る霊地では不思議な美しい光景が数々あった。白瀧神社では二カ所を礼拝する法則も分かった。お宮の中が拝禮が進むにつれに光っていった。この日の、瀧の修行・禊ぎは素晴らしいものだった。遂にわたしたちは、念願の得道の為の神祇との交通が始まったのである。

古神道でも神道でも、斯道に於いて、これを実現している者はほとんどいない。みな「単なる物知り」「古神道マニア」みたいな頭でっかち、やっているつもり人間ばかりなのである。得道を助ける神との交通などできているものは現代において、ほぼ絶滅している。

この度、お約束の通り、先の神真と結縁する為の御神璽を奉祀した。それは正神界と結縁する霊璽でもある。白眉なのはもう一柱の人間を得道せしめる神真との「結縁護符」が祀られたことだ。

つまり我孫子カイロプラクティックセンターの開院のお祝い禊ぎ会に於いて、得道の為の二大神真が「感応道交(かんのうどうきょう)」したということである。

白瀧禊ぎ行

忘れ難い瀧行・禊ぎ、御神璽奉祀式になった。今回の先達衆には、身に付けているだけで「神通力」が出てくるという御神符を授与する予定である。

夜には庄田先生のお宅で結構な晩餐をいただいた。庄田先生にも奥様ご家族にもお気遣いいただき、この場を借りて感謝申し上げます。

庄田家の二匹のワンちゃんも元気いっぱいでした。愛犬ジャックはお庭で大はしゃぎでした!

我孫子カイロプラクティックセンターはとても立派な治療オフィスになりました。優れた治療がなされ、繁盛してゆくことでしょう。きれいで清潔な治療院です。既に開院日の今日、数名の治療予約が入っているのです。

最後になりますが、白瀧でいただいた、近谷先生特製の「白瀧ラーメン」はやっぱり美味しかった。こんなに美味いラーメンはない。

来る3月20日〜21日、此の所で合宿を行います。宿舎も眺めがよく、楽しい企画になりそうです。ご参加の方は、お申し出ください。白瀧ラーメンの予定はあるんです。

白瀧ラーメン! 

御祝い禊ぎ会前夜の奇瑞【我孫子カイロプラクッティクセンター開院前夜】

わたしは2月12日(土)の夜から今の時間まで、我孫子カイロプラクティックセンター開院お祝いの為の「禊ぎ会」ならびに「神拝式」の準備をしていた。まさしく遅れ遅れの「豊(卯)」の因縁である。

神界に結縁するところの護符、法式に用いる祝詞や秘詞を準備していたのである。

まったく不思議なことであるが、或る霊的な秘書が気になり、しばらく読んでいた。わたしは少年のころから、こういう感覚があった場合、大抵何かある。経験的にわかっている。

その書には、こうある。

彼の世界では「火の行、寒水の行」があり、寒の時期の修行は、主に「筑波山の白滝、不動滝」あるいは「日光の華厳の滝」で行うという。およそ30日間、両部の法式で行うという。

これは「山人界」と呼ばれる界での修行だ。地仙と呼ばれる存在だといえる。「両部」というのは、神のほうもあり佛のほうもあるということである。だが、主に神祇を尊んでいる。この界では、密教の護身法なども切る(結印する)とも言われている。

あと数時間で訪れ修行するであろう「白瀧」には、霊的な意味において重要な秘密が込められていたのである。出発の数時間前の前夜に知ったのは、まさしく奇瑞である。 

国際基準【我孫子カイロプラクティックセンター愈々開院す】

庄田先生開設の「我孫子カイロプラクティックセンター」が2月14日(月)吉日に愈々開院する。同センターにて、松浦先生もカイロドクターとして治療に従事することになっている。大変喜ばしいことだと思う。

庄田先生と松浦先生は、国際基準のカイロドクターである。日本においてカイロドクターというものは国家資格としては認定されていないけれども、アメリカをはじめオーストラリアその他の諸外国においては、ドクターとしての格を有し、それだけの学問技量を積む。両先生は、紛い物の多い日本のカイロ業界にあって、国際基準の学識を持つ先生だということができる。

このような先生が治療業界に参戦することは、「未病」の多い現代に於いて地域に光を投げかけるものと確信している。更に両先生は、わたしが主催している自然智乃会で教授している「霊法」を修行しているのである。優秀なカイロプラクティックの技術だけでなく、霊術=療術も実践しているのである。

わたしは特殊な治療に係わる「霊法」「霊術」「禁厭(きんえん)」を集成する作業に入ろうかと思っている。その中には、大名貴神伝の法も含まれている。優秀な先生方には、どしどし教授してゆこうと思う。土台には当然、産土神拝禮と導師との信頼がなければ法は成し得ない。

2月13日(日)には、例の「白瀧神社」にて、滝行禊ぎ修練会を行う。参加者は当初の人員より少なくなった。滝行修練会の公開応募を中止にしたので、それに伴っているわけである。

わたしとしては迷いや妄念など、そういうものの無い曇りなき一点に於いて祈りを捧げたいので、そのようにさせていただいた。

「画竜点睛」というけれども、目玉の入れ方で生きるかどうかということになる。庄田先生も松浦先生もブレがないので、まずその点は安心だが、お祝いにゆくわたしとしては、潔斎ということを第一に考えるわけである。

いずれにしても寧日待った。一日千秋の思いで待った。先生方は尚更のことだと思うし、喜びと期待もひとしおだと思う。開く(天らく)気合でお祝いしたいと思う。

スカイプ講座【魂に備わっている清浄心】

2月9日(水)第3回スカイプ講座を行った。

はじめの20分間接続がうまく行かず、皆さんにはご迷惑をおかけした。しかし、スタッフも聴講者の方々も協力しながら、様々な問題を克服していると思う。忍耐努力をして皆の力を結集して事を為すというのは実に清々しい。

習慣といい、慣れるというけれども、おなじ「なれ」でも、狎れはよくない。けもの偏の「狎れ」はダラシないという意味を多分に含んでいる。

強情・固執・頑迷もよくない。「春風(しゅんぷう)をもって人に接し、秋霜(しゅうそう)をもって自らを粛(つつし)む」というではないか。

霊学といっても、なにも特別なことではない。己の「霊魂」の行方を知るということなのだから。日本にはこの教えが存在する。多くの先達が遺しておいてくれたのである。何とありがたいことだろう。

霊魂を「たましひ」と読む。魂は「たま」、霊は「ひ」。霊は「一霊」、魂は「三魂(四魂)」。すなわち「一霊四魂」とも「四魂一霊」ともいう。一霊の働きが四魂のなかにある。四魂のなかには、一霊がそれぞれあるとも言える。

霊は「ヒ」と読む。霊が止(ト)まるから「ヒト」なのである。

その一霊は、天の大神から来る。根本神の天御中主大神の霊が、天津神から国津神に下賜され、産土神を通して、生まれた瞬間に人間に宿る。生まれる以前は、両親からの「魄霊」のみだ。生まれた時に「魂霊」を授かるのだ。

人間には、神の側面と、業の塊の側面が、生まれたときから内側にあるのである。
「霊魂」に付着した「ケガレ」や「業」を、祓い清めるのが、霊学の修道ということになる。魂の働きは、つまり心の働きだ。霊学の根本は心を浄めることを以って本と為すゆえんである。

ありがたいことに人間の魂には、反省する心が備わっている。自らを清浄にしようという心があるのである。これを「清浄心」という。これがあるからこそ、ヒトは「霊止」であることを自覚できるのである。

反省すべきことが生じ、恥ずかしいと思う。裏を返せば、清浄心の働きだ。これあればこそ、魂は清められるのである。大切なことは、どう反省するのか、どこを反省するのかということである。

見当違いの反省では、折角の機会を逃してしまう。魂の修行にはそういうことがつきまとう。勝手な判断をしないように、先達に聞くことが大切だ。まして慈悲の眦(まなじり)を開いている、己達明法の導師の指導は仰ぐべき価値があると思うものである。

必ず道は開く(天らく)!
 


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