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  • 2012.12.01 Saturday
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ガナ・チャクラの饗宴【薬師如来の玄義】

薬師如来
    (薬師如来)

昨日は金剛サッタの浄化の修行である、「寂静・憤怒百尊」 の行をおこなった。この修行法は、自分の身・口・意の業を浄化すると共に死者の中陰供養・浄化としても行うことが出来るものである。

少し説明はしたが、まだまだ飲み込めていないと思うので、再度行いたい。これを理解すると所謂『チベット死者の書』やゾクチェンの教えの理解に繋がる。

また、西王母像が一昨日ラサから到着したので、特別に公開した。ただし、まだ入魂していない。

初めて、薬師如来のタンカ(仏画)をご披露した。このタンカは大きいもので、ダライラマ法王の侍医もなさっておられるダワ医師によって謹製されたものであり、すでに開眼供養も済んでいる。

今回、わたしは初めて薬師如来の玄義を述べた。このことを明言し、公開の場でお話ししたのは、この世において、わたしが初めてであろう。いままで公開の席で語ったことはない。

詳細は、霊学講座や滝行修練会に参加し聞いていただきたい。いずれは霊学講座も「一般的な講話会」と「修行が進んでいる方対象の伝授会」とに区分けすることになります。

薬師仏のマントラを唱えて不思議なことがまたもやありました。本当に不思議です。

ガナ・チャクラの供養もすばらしかった。気が統一され、一糸乱れずに修行できました。いままで沢山のガナ・チャクラ供養をしてきましたが一番でした。明らかにデーヴァやダーキニーたちが集散し、グル・デーヴァ・ダーキニーの三つの根本の力が統合され、その加持力を受けたと思います。誰かが言ってましたが、まるでプチ滝行だと。言い得て妙です。

わたしも次回の供養会を楽しみにしています。しかし、趣味にしては大掛かりですけれども・・・(笑)。

西王金母の来臨

西王金母

本日チベットのラサから来臨されました。
ラプネ(開眼)する前に公開します。

仙に連なる者が、毎朝必ず礼拝すべき神真が西王金母である。

松本道別翁を導いたのも金母である。野口晴哉先生を回春秘道の大家ならしめたのも母である。 
母の恩寵により、性を転換するの力が得られる。

成就せば現証あり。

色情因縁切れて、修行の糧となる。金母の力に拠るほかに無し。

わが道場には金母の力あり。これ僥倖のことなり。

すばらしい薬師の大神(薬師仏)のタンカあり。西蔵の名医によって描かれ、金母と一緒に奉祀す。

嗚呼、11月28日は記念に残る日になるべし。

我、金山、ここに「薬師の玄義」「金母の秘釈」を唱うべし。

秘境クンルン【ここが霊法の根源の地である!】

秘境クンルンシャン

いずれわたくしが訪れるであろう秘境クンルンシャンマイ。
あなたはこの山々に何を感じるか! 

不死金剛の玄胎神身を成就するなり

松本道別翁はその著書の中で『不死金剛の玄胎神身を凝結成就するなり』と述べている。

神道系では、己の身の中の霊的な体を「霊胎」という。
仏教系、殊に密教では「金剛身 」というのである。

密教では、まず「金剛サッタ」になる。普通の人間では密教の法を修することはできない。まずは金剛の菩薩になって、密教「変化の修行」をするのである。

金剛サッタとは、清められた存在であり、煩悩や欲望、カルマを昇華することができる方法を持つ者のことである。怒りという煩悩が生じても、すぐに明王の三昧に入り、怒りのエネルギーを智恵に変換してしまう。このようなことができるのが、金剛サッタである。

浄化していることと、エネルギーをコントロールすること、これが特長だ。

金剛サッタになった者は、金剛身を得ている。わたしはこの金剛身こそが、神の方でいう玄胎もしくは霊胎の基礎ないし本体なのではないかと考えている。

1月〜3月、わが会では毎週、滝行修練を行う。これはクンダリーニ開発と同時に、霊体の基礎作るためのものである。幸い滝の流水に祈り、行者が入滝しているときに、その滝の本尊神祇の力を霊水に込める霊法を体得しているので、霊的清めの滝行ができるようになったのである。

その意味で、霊水の洗礼を冬季は沢山受けれるということになったわけである。

松本翁のいう不死金剛の玄胎神身を完成する呼吸法と共に、来シーズンは本格的な霊的修行に突入するわけである。

全ての修行課程に参加できるのは、神許のあった方のみです。

まもなく来年のスケジュール発表!

まもなく来年の講座日程を発表します。

1月〜3月までは毎週1回 は滝行修練会を行います。
柳澤先生の整体講座は月1回行う予定です。
霊学講座はスカイプで講義中心となります。産土神冥徳講義を連続で行います。
庚申日には祭事と講義。その他随時、行事を行います。

野中操法は、整体講座の開始前に稽古会形式で短時間で行います。
開業手技療法の講座は平日の夜に行います。指導員クラスの方には、参加されなくてもあとで同内容を教授します。

2月あたりに簡易合宿を行いたいと考えています。
この合宿では「開運鎮災秘伝」「祈念秘法」を伝授します。

3月には「自然智の会 阿育王山 金山寺 霊術道場」の秘佛を修行者同士だけに公開します。皆様におかれましては恩頼(みたのふゆ)を受けていただきたいと思います。

また12月末〜元日にかけて、高知の霊地である「手箱山仙境」」「浦戸竜王宮」その他の仙境に参詣にゆく予定であります。この霊地は、神界に深き結縁のあるところであります。

1月はじめには初滝行。そして昨年同様の参詣を致します。

以上

霊学講座【産土神冥徳講義】

本日で霊学講座も第14回をむかえる。
松本道別翁による名著霊学講座で一つだけ難があるとすれば、産土神について触れていないことである。

このことは由縁あってのことだと思うが、産土の教えなくして霊学そのものが成り立たない。
日本の教えの素晴らしさ、イコール「産土神の御恩徳」である。

霊学講座というと、すぐにテクニックに走る。しかし、いくらそんなものを求めても得ることはできない。小手先だけでは、邪神がとり憑くのが関の山である。

生あるも死あるも、その背景には「産土神」のお働きがある。

わたしはこれを「産土神の冥徳」 と表現している。記念すべき「産土神冥徳講義」の第1回が本日行われる。これはわたしの人生で、或る岐路が訪れていることを表わしていると思う。

奇跡の霊写真【日本武尊の現証】

日本武尊の霊写真 

改訂版:最高の陰徳【神真啓導:三つの奇跡現前す】

尾形学而先生宛の葉書
(書籍の中にあった尾形学而先生宛の葉書)

尾形学而先生の使用のしおり
(尾形先生が使っていたしおり)

昨日、御参方の尊秘なる神真に関係する書籍と遭遇した。
これをわたしは「神真の啓導により三つの奇跡が現前した」と表現している。

御参方の神真とは、一体誰なのか?
1.方全先生(ほうぜんせんせい)
2.尾形学而先生(おがたがくしせんせい)
3.大枝国兼大仙人(おおえだくにかねだいせんにん)
である。

上記の参神真は間違いなく「仙」を得ており、殊に1.の方全先生は、神界よりの使仙として降臨し、明治天皇陛下の側近掌典(宮中の神儀を司るお役目)としてご活躍なされた「尊官」である。今尚、神界にてそれなりの地位であらせられるのである。3.の大枝国兼大仙人は、歴史的にも実質上でも「武州御岳神社」を開いた方であり、祖といってよい大神仙である。御岳山には現在でも大枝国兼が白日昇天(びゃくじつしょうてん)した聖域がある。

まず、方全先生は「雲〇〇〇」を畢竟のご研究と決めておられ、この書の全巻は日本では中々お目にかかれないものなので御縁に任せていた。この度、この書の所在を知ることになった。これが一つ。

次に、武州御岳山研究の論文書を手に入れることができた。この論文書には、先の大枝国兼に関する記述があった。このことは御岳で修行する我々にとって認識すべき内容を含んでいるものだった。

いま一つは、尾形先生個人が所蔵していた本だ。尾形先生は、あの有名な川面凡児翁の一番の高弟であり、神通力は第一の方だった。遠当てが出来る方で、歩いている人をコロコロと倒すことが出来た。普通は、気で倒すとかいうと、こう構えてやるわけだが、意識していない人を倒すのだから、本物の遠当て(とおあて)の法である。わたしも極々若い頃に一度だけ目撃した。この先生の逸話は、直接のお弟子さんから多々伺っているが、著作などは一つもない。ただ、尾形先生が昭和初期に編纂した祝詞は所持している。昨日は尾形先生が、書架に置かれていた蔵書、その中の或る「霊書」を手にしたのである。この書は斯道を歩むものが必ず読むべきものである。今の時期に尾形先生自らが手にしていた現物が現前したことが奇瑞なわけである。これは霊応である

上記の書、すべてわたしの元に来ている。わたしは到底、偶然とは思えないのである。本当のところは、神真の御啓導だと思うのである。おもしろいことに、全ての書に共通して言えることは、今後非常に大切な内容を包含しているものなのである。

このような導き、道福はどこから来たのであろうか「前世の果報による」と言ったらオチがついてしまうが、これは『産土神』の御働きを少しでも広めた功績功徳なのだと思う。

さらに付け加えるべきことは、産土神の神界における御神名を授かったことである。このことは人間界には到底知らされていない事実だが、自ずから悟ることが出来た。

皆さんも、神界の掟法をよく理解し、吟味して周囲の方々に誤解なきように、産土の大切さを教えてあげていただきたいと思う。この功徳以上のものは、おそらくないと思う。産土神に祈るところの死者安鎮供養は、さらにすばらしい功徳をもたらす。11月21日(日)午前9時〜、霊学講座の前に「霊魂安鎮法式」を行います。主にSさんの叔父様を祭祀・御供養申し上げます

引導文の事【11月15日の霊魂安鎮法式のご報告】

11月15日(月) 予定通り、霊魂安鎮法を施行した。その他にガナ・チャクラ・プジャー、シトーの死者浄化の修行、マルメモンラムなどを行った。滞りなく終わりホトケ様に追善回向することができた。

今回の法儀では特別なことを行った。それは引導文を奏上したことだ。この引導文の大要は、ある大神仙がお遺しになられたものであり、結語に当たる部分は神界に出入りしたる者でなければ奏上することができないので補準した形のものとなった。しかし、結語の部分は、わたしの手により「自動書記」という形で書かれたものであり、霊魂を引導する秘言と印契が導入されている。

神道系統には回向がなく、その点、典礼としては点睛を欠く風もあると思うが、今回の引導文は、祈りのまにまに法式が終わるという優れたものになった。

今回主に祭祀申し上げた御霊魂は、篤信者であるSさんの御父君の長兄にあたる方だった。実はこの方が帰幽したのが、11月8日であり、幽政秘期の最終日なのである。この日は特別な日であり、すべての霊魂(生者死者問わず)の階級の決定執行がなされる日なのである。

またこの方の生まれた日がすごい。10月9日なのである。この日は幽政の秘期開始日である。誕生日と帰幽日がそれぞれ幽政秘期の開始日、終了日なのである。この事実を知り、わたしは即、引導文の執行を思い立ったのである。

死者を引導するためには、三魂の教えや産土神の機能を熟知していなければならず、またヒマラヤ神界系統の仏仙の法である、チベットの法の執行には、バルド・トェ・ドルなどの教えを理解していなければ修することができない。わたしのところの法すべて、死者引導の法も含めて、神法とヒマラヤ神界系が統合されているのである。これは頭でゴチャ混ぜにしたのではなく、まさにそのような神界があることをご承知願いたい。このことをこの地上で明らかにするのは、わたしをもって嚆矢となることは疑いようもない事実だと思う。綴れば一冊の本になることであろう。

・・・そして今朝、霊夢を見た。
そこはある仏仙界であった。特殊な帽子を被る所だった。Sさんの叔父さんにあたるその方が、間違いなく神界付近まで逝ったことを感じた。おそらくは真正の「仙」の一歩手前の「補準仙」の格式にまで到達したものと思う。修道していない人間としては、仏教でいう最高の成仏の相だと思う。

Sさんその他の方には、亡くなった時に行う秘文を伝授している。この執行により、霊魂は確実に引導されるのである。今後、指導員候補の方や、我が会の3つのグループにて主体となる方々には、引導法を伝授いたします。

最後になりますが、今回ご供養の御霊魂の戒名には「徳」の一文字が付けられたそうです。生前に徳が高かったということで、そのようになったそうです。家業として農業をずっと行っていた方だそうです。また、そのご母堂様は、齢103歳の御長命だったそうです。


修道の心得【徳とらず損をもせざる】

その昔、讃岐の国に一向宗(浄土真宗)の僧、永徳和尚という人がいた。真宗であるから、肉食妻帯していたが、白鳥にある寺院を捨てて修行の旅に出た。

修行と言っても、念仏をやるだけのこと。安宅というところの海岸の岩窟に住み、妻子に会うことはなかった。日に一度食事をし、衣をまとわずに巌の上にあった。

ある時、不幸なことに岩窟まで秋津波が入り込み、永徳は海中に引きずり出され、怒涛に飲み込まれてしまった。だが、永徳は波の上を漂い、遂に死ぬことはなかった。

彼は不思議にもその後、同じ岩窟で変わらず隠遁生活を送った。海上を交通する船上の乗組員は、その高らかな念仏の音声を度々聞いたという。

国守某甲は、此の事を聞き及んで、黄金を与えたが、永徳は見向きもせず、人々に分けて与えた。髪は蓬の如くなっても剃らず、50余年を過ごした。

永徳は次のような歌を遺している。
『徳とらず 損をもせざる いとなみは 苦にもならねば 楽とおもはず』

凡そ平らに生きる。これはとても難しいことだ。本当の平凡を実現することは難い。何故ならば人間には欲があるからである。

不思議なのは、何故、一向宗の永徳が念仏三昧修行をしたのかということ。そして「仙」を得たのかということである。およそ一向宗は修行を否定する。修行を雑行というのだ。親鸞の師匠の法然は専修念仏といい、修行の要素がある。しかし親鸞の念仏は感謝の念仏だ。すでに救われていることを自覚するという感謝の念仏なのである。永徳は、一向宗の僧侶。どうも腑に落ちない。

要するに神祇だけでなく、仏仙の救いもあるということである。すべてはご縁、産霊紋理(むすびかため)だということである。

損得、苦楽を離れる、否、離れるということすら思わない。この心境がこそが、修道の心得というべきものなのであろう。


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