大峯修行記(1)である。
いちいち話すのが面倒なので、記しておくことにする。
大峯には、ご存知の通り、女人結界がある。狭い範囲であるが、女性が入れないし、修行することはできないのである。時代錯誤的ではあるが、開祖の役の行者や後に続いた高徳な修行者が、そのようにしたので、仕方のないことだ。近年は、顔を何となく隠して登山する女性もいるようだが、各聖跡を拝して修行することはできない。先達がいなければ、何をやったらよいかわからない仕組みだからである。
まあ、しかしどんなに偉い聖者もお母さんが産んだのであって、母は偉大なのである。その点、ゾクチェンは凄い!男性などはどうでもよくて、カンドロ・ダーキニーである女性を尊ばないと成就できないとされる。ゾクチェンの教えは、もともとダーキニー達が護持しているものなのである。
ゾクチェンや仙法などをこの十数年間、充分積んだ上で、大峯に行ってみると、どのくらいの密教レベルか明確に知ることができた。やはり密教としては、チベットの方がはるかに高度だった。その点はお話しにならないほどだった。しかし、ある種の神法はある。そのことは先般、述べたとおりである。
今回、お世話になった大先達が、早朝の法座で、「穴の蔵王」について触れた。穴とは、九穴のことで、人体の九つの穴だ。この九つの穴が分かるか、というのである。
わたしは、生来の出しゃばりなのか、こう答えた。目2つ、耳2つ、鼻の穴2つ、口、臍、肛門で、九つ。すると大先達が「それは違うでぇ」の一言。「臍ちがうでぇ、第三の目やで」。満座の前で、わたしの言うことが違うと言った。果たしてそうであろうか。
九穴は九竅(きゅうきょう)とも言う。これは東洋医学の方の用語だ。そもそもわたしは鍼灸指圧師だから、そんなことは知っているのだ。だが、九竅(きゅうきょう)だと、人体の九つの穴、両目、両耳、両鼻孔、口、後陰、前陰ということになり、 臍は入らない。ではどうして、わたしは臍と言ったのか。それは仙法に研究法という基礎法があるからだ。究という字をご覧いただきたい。穴・九と書く。研は研磨すること。つまり九つの穴を磨くのが仙法の基礎法の1つなのだ。この種の法は、チベット密教にもにもあり、詳しく説明が出来る。
さて、仙法における研究法は、目2つ、耳2つ、鼻の穴2つ、口1つ、ヘソ、肛門なのである。だからわたしは、そう言ったのだった。そもそも古代の修験は神仙道だからである。神仙と化す。こんなことはすでに常識なのである。
では「穴の蔵王」とは何か。それは「鐘掛岩(かねかけいわ)」のことだ。大きな岩場をよじ登る修行があるのだが、この岩場そのものが、修験道の本尊:金剛蔵王大権現だという。この岩に九穴があるから、「穴の蔵王」と言い、鐘掛岩の秘歌にも、「鐘掛の問ふて訪ねて来てみれば 九穴の蔵王下にこそ見れ」とある。
大先達とわたし、どちらが正しいのであろうか?
我田引水になるといけないので、大修験者:中條真善先生の著書から引用することにする。
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穴の蔵王
蔵王菩薩の左の目は弥勒菩薩の所居、右の目は阿閦如来の所居、左の鼻は普賢菩薩、右の鼻は釈迦如来、口は大日如来、左の耳は宝生如来、右の耳は観音菩薩、臍は阿弥陀如来、尻は文殊菩薩が在住し給う。即ち此の山は諸仏集会の極楽世界である。然しながら此の山に登るには下品下生より上品上生に至る九位の修行を得て初めて金峯の山上に登る事が出来る。此くて修行者は一切の煩悩を捨て発心修行して少しづつ仏界に近づく様に修行しなければならない。九穴とは九品であり、九穴の各尊は修行者の修行に従って諸尊聖衆の界会に列する事が出来、九尊の加護を蒙る事に依り成仏するに至ることを示すものである。
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このように口伝されているのであり、九穴とは、煩悩の場所でもあり、目2つ、耳2つ、鼻の穴2つ、口、臍、尻(肛門)なのである。第三の目は、覚醒した者だけが開いている、聖なる部位である。だから大先達の言っていることには、独自性はあっても根拠がないのである。というよりも修験道の教義的には、おかしな話なのである。
第一、今回は「鐘掛岩」での修行は出来なかった。その理由は、あのとき岩の上には、以前わたしが待っていると言った、神仙が居らしていたのである。だから、わたしは裏側からも行かなかった。知らないというのは、恐ろしいもので、そこに、つかつか行く者もいた。何事にも恐れを知っていることが大切と思った次第である。
補足しておくと、わたしの脳裏には、「識なり」との概念が流れ込んできた。
そう「九識」だ。人間の心を仏教では解析し、九つの心に分けた。
九識は、九煩悩であり、極楽の九相(下品下生〜上品上生)であり、九尊であり、九穴なのである。すべて同じ事を言っているのだ。鐘掛岩をよじ登って、どのように之を悟るかという具体的な方法がなければならない。伝統の中で胡坐をかいているものには、永遠にわからないことであろう。