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  • 2012.12.01 Saturday
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大乗起信論(1)【中観・唯識 菩提心を起こす】

大乗起信論(1)である。

密教の修行をする上で修学すべき論書は、「中論」と「成唯識論」である。

「中論」は中観思想であり、「成唯識論」は「解深密経(げじんみつきょう)」などと共に唯識思想を説いている。思想としての仏教教学としては、最高峰である。

日本の南都六宗においては、三論宗と法相宗が、両思想を研究していたのである。

この書は、大乗という文句がはじめにあるように、大乗仏教の真髄を説いている。信を起こすということを詳説している。

大乗仏教に対して小乗仏教という言葉があるが、これは大乗側からの偏見である。

小乗と言うよりも、長老派・上座部という様な言い方が正しい。厳密にはテーラワーダ仏教という。タイやスリランカなどの国々の仏教がそれであり、お釈迦様以来のあり方を護りつづけている。厳格に戒律を護持して、「肉食妻帯」はしない。現代の日本の坊さんとは前提が違うのである。

大乗仏教が上座部を貶すのには、それなりの理由がある。上座部側は、自分たちの修行だけを考えている。要するに在家者のことなどあまり相手にしないのである。

そういう上座部のあり方とは違う者たちが出てきて、やがて大乗仏教に発展していった。

では大乗仏教の特色は何であろうか?それは、「発菩提心」ということである。要するに「慈悲心」ということである。仏様の慈悲を信じてゆく、自分も慈悲心を持つようにしてゆくこと。これが上座部には無い特徴である。

では、上座部やその前身である釈迦教団には「菩提心」が無いのかというと、そうではない。

「アンニャー」という名称で、「求道する心」を表現しているのである。それは「悟りを得ようとする心」「神通力を得ようとする心」である。

大乗起信論は、中観・唯識の教学がより実践本意で説かれている。非常に重要な文献である。この書を紐解いて、研究することをおススメする。 

求道への遍歴(その1)【運命心理学との出会い】

わたしの祖父は、天台密教の古い寺院に出入りし、ご住職に易占や書道を教えていたという。確かに達筆であり、経文などの筆跡は立派な文字である。その影響というか遺伝なのであろうが、わたしも同じような事をやるようになった。

母方の男子はすべて薄運であり、才能があるゆえにその生涯は惜しいものであった。子供ながらにどうしてこんなに親戚は運が悪いのかと思った。子供頃からいつかこの家系に纏わる運命を開運したいと考えていた。自分の将来よりもそっちのほうが重要だったと言ってよい。

16歳になりお寺に通いだし、経文を唱え始めた。特にお不動さんは信仰の根本だった。 九字を切ったり、真言を唱えるなど、自分なりの修行をした。すべて祖先の供養と、家系の運気転換の為だった。

直感的に祖霊の影響が、親戚の男子に関わっていると感じていた。父方にはそのような陰気くさいことは無かった。しかし、わたしは母の実家の仏壇の前で誕生したのであり、そこには数百年前から伝わる「不動明王三尊像」が安置されていた。非常に立派なお不動さんであり美しい仏像だ。この不動明王像には、いわくがある。

それは昭和15〜6年のことだ。この伝来の不動尊像を一般の家では、お奉りしきれないからという理由で、祖父は寺院に預けたという。すると、祖父は病気になり、娘が病気で亡くなったりということが続いた。その他にも怪異のことがあったという。そこで大山のほうの祈祷師の女性に解決を求めた。その女祈祷師の話しでは、恐い顔をした神仏が怒っているという。更にその神仏を動かしたことが原因であると語ったそうである。早速、寺院から返還してもらい、祖父が奉祀する為の器物を作りお奉りした。不思議なことに、家は明るさを取り戻し、次男が生まれた。今でもその器物に入って安置されている。また、その祈祷師は大山の御師(おし)であり、わたしの祖母の家系は、大山の御師であった。御師とは、いわゆる神主である。

件(くだん)のような理由で、わたし母方の縁起というものを良くする事が自分の使命だと思うようになっていた。その気持ちは今でも変わらない。わたしの「産土神」は、母方の祖霊と同じ神祇なのだから当然といえば当然である。高校1年生の晩秋に、或る2つの事件に遭遇し、わたしは人間の運命を真剣に考えるようになった。そんな時に出会ったのが、「ソンディ博士の運命学 あなたの運命は変えられる」という本であった。昭和54年12月刊行である。

著者は佐竹隆三先生。ここに一条の光りを見出したのであった。

(続く)


レオポルト・ソンディ博士【衝動病理学】

レオポルト・ソンディ博士

ハンガリー出身の医師、レオポルト・ソンディ博士。
天才的な精神病理学者である。彼はその研究によって独自の分野を切り開いた。

ソンディ博士は「運命分析学」というものを提唱したのである。
それを一言で言えば、祖先の意識(衝動)を子孫が受け継ぎ、人間の営みの4つの分野を選択するというものである。

4つとは、結婚選択・職業選択・疾患疾病の選択・死亡形式の選択である。

この4つを、祖先の欲求が選択すると言うのである。

結婚および理想の選択、職業選択、病気および死亡形式を決められてしまったら、人生の大きな部分は、ほぼ決められているといってよいのではないか。

博士によれば、「運命は選択である」ということなのだ。

その場において、どう選択するか。我々は生きているうえで、常に選択にさらされている。選択するという要素、そして選択されるという要素、この2つが関連しあいながら「運命」というものをかたちづくる。

衝動心理学では、祖先の欲求を「衝動感情」と名づけている。あるいは「衝動意識」という語で表現している人もいるが、わたしは気という心の力の一部が関与していると考えているので、「衝動気質」と呼んでいる。

何故かというと、この衝動が起きる他人の上に、そして自分の人生の上に見てきているからだ。つまり、単なる意識(こころ)だけではない、一種のエネルギーが爆発的に動くからだ。これを気と捉えて「衝動気質」としたのである。この名称のほうが、転換がし易いイメージが喚起されると思うからだ。

ソンディ博士は、遺伝子の中に「衝動」の根拠を見出し、8つの遺伝子を発見した。
C(接触衝動 )・・・m(依存遺伝子)、d(獲得遺伝子)
Sch(自我衝動)・・・p(存在遺伝子)、k(所有遺伝子)
P(感情衝動)・・・hy(道徳遺伝子)、e(倫理遺伝子)
S(性衝動)・・・s(攻撃遺伝子)、h(情愛遺伝子)

運命分析法という特殊な方法(テスト)によって、どのような趨勢・衝動を持っているのか知ることが出来る。

滝行法、禊ぎなどで出現する、特殊意識や衝動は、まさしく「祖先の抑圧(かくれたこころ)」といってよい。わたしは、このような観点から、修行者の「気質」「衝動」「ケガレ」というものを観ている。まさしくそれは、先祖の欲求なのである。

修行の土台(1)【因縁心論を読むべし】

修行の土台ないし根本は、理解ということである。
霊験話や奇譚ばかり追っかけていたのでは、境涯が進まない。
持って生まれた業や縁が変わっていないのだ。

仏教も神道も宗教であるが、当然のことながら組織が介在する。人間が3人以上居れば既に社会だ。自分を練り上げる、自分を見つめるという修行のみが本道なのに、宗派宗旨の争いが出てくる。
結局、伝統芸能のお免状の世界なのだ。なんだか気味の悪い住み分けをして、宗教家を演じている。わたしは実にくだらないことだと考えている。

日本の宗教・信仰の土台は、神道と仏教である。
まちがいなく、わたしたちの骨・血・体には、この2つの宗教のエッセンスが流れ込んでいる。

神々の教えは、近くはご先祖、遠くは神にまで及ぶ。我々の遠祖は、神典に出てくる神々なのである。神典とは、古事記であり、日本書紀だ。2つを合わせて、記紀という。

仏教は、遥か1500年前に伝来し、独自の日本的発展を遂げた。
多くの悟りを得た、坊さんを輩出した。言葉にも自ずから統合され、日常の言葉に仏教用語が入り込んでいる。

わたしは以前から、日本の信仰は、神仏が一つになっていたと主張していた。神ごとも仏事も大切にしていた。仏教も日本の土壌の上にあるのであり、土地の神さま、即ち「産土神(ウブスナ)」を抜かして考えることはできない。しかし、神のほうも、仏教の悟りが必要であった。

神々も、輪廻流転を免れない、そういう境涯の神はたくさん居るのである。事実、神の側からのご霊示で、その事実を述べているものがあるのだ。仏教の解脱に至るダルマがなければ、輪廻から脱することはできないのである。

仏教の教えの核心、根本、土台は何かというと、それは「縁起の法」である。これを理解しなければ解脱することは難しい。

お釈迦様は、これあるによりてこれあり、これ滅すればこれ滅す、と云われた。
(縁起の)法を見る者は、われ(仏陀)を見る、とも云われた。因縁というが、縁起の縁には、因が含まれているのである。縁起の展開は、空であり、すべてのもののに本質は空なのである。すべては縁の連鎖に過ぎない。悪い業を転換できるし、存在を悟りの境涯に誘うこともできる。

龍樹(ナーガールジュナ)の著作に「因縁心論」がある。縁起の精要、十二因縁について述べたものであるが、己れの因縁や業を転換して、自ずから悟る境地にゆこうというのであれば、これくらいは読み、さらに理解しておく必要があろう。

そのレベルに首を傾げざるを得ないような、坊さんや神主・修行者は、縁起の法くらいは、よくよく理解する必要がある。それができていないから、お免状や流派の枠に捉われるのだ。そんなだから、仏教も神道も生きた宗教ではなくなってしまうのだ。

修行の土台も分からないで、いくら読経しても、法螺を立てても、それこそ法螺吹きだし、坊主丸儲けの謗りは、免れることはできないであろう。

皆さんも坊さんが居たら、何のために修行・信仰するのか、聞いてみたらよい。その答えで、どの程度の理解なのかが知れることであろう。

大熊光山著 【光山相法】 無くて七癖

 人間『無くて七癖』と言います。どんなに偉い人でも、完全な人間などいません。不完全な者同士が共存しているからこそ、協力もあり競争もあり、物事は発展してゆくのでしょう。あるいは良くないことも起きるのでしょう。

野中操法や整体操法のなかに『人心看破の法』というものが、特別にあるものではないが、僕は個人的に「相法」というものを趣味にしている。これは好きなことでもある。プロフィールに「趣味:相法」と僕は書いているが、これは間違いではない。操法ではなく相法だ。

相法とは何かと言うと、人相をはじめとした観相のことだ。
「黙って座れば、ピタリと当たる!」なんていうのは、なかなか名コピーだが、これは桜井大路先生という方のところで云われていたことだ。八木先生などの名人もいたし、こちらの相法のほうも、かつては大物がいた。

皆さんは、大熊光山という先生をご存知だろうか?
この方は『光山流観相学』というものを創始した方だ。手元に「光山相法」というものの写本複写がある。この写本には、人心看破の法が克明に記されており、読んでいると大変参考になる。

人の動作と運命の関係を論じている。こういう動作、仕草をしたら、このように考えているなど、非常に面白い。天源淘宮術(とうきゅうじゅつ)でも同じことだが、この干支はこういう性格で、こういう運命だという。こういうものを学ぶ上で、気をつけなければならないことがある。それは、専ら人を見ることに使わないことだ。自分を観るための手鏡だ、という自覚が先ずなければならない。

その上で他人様も観てあげるということだ。
例えばこういう記述がある。後学に為に記そう。
『一、 誰もいない時、自分の前で自分を戒めてくれたり、忠告してくれる者は、真情自分を思う人でございます。しかし、この場合ただ威張って叱るような言い方をするものは義理があっても人情のない人でございます。』

この写本では、面白い記述が延々とつづく。
しかし僕は、いちいち人と接するのに観相などやらない。我宇宙の真ん中にあり、対座する人も真ん中にありと思っているから、すべて自分の鏡なのだと考えている。

先の光山先生の記述からすると、善意がある人は、一対一で忠告なり、注意をしてくれるものだ。逆の場合は、どのように装うとも、何らかの意図があるものだ。己という存在や主張に執着して、常軌を逸している言動は聞く必要がない。相手に大切なことを伝えたいと思っているなら、直接会って会話するだろう。相手に本当に伝えたいことがある場合、誰でもそうするものだと思う。人に忠告する場合、意図が正確に伝わるように気をつけなければいけない。

大熊光山先生の「光山相法」の一部を野中操法研究会の皆さんにもお見せしようと思う。自分を観、人心看破の法として活用していただければ幸甚である。

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