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  • 2012.12.01 Saturday
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ほんとうの話【古いモノには浮遊霊が憑いている!】

【古いモノには浮遊霊が憑いている!】 

これは、ほんとうのお話なのですよ。

古いモノや本やなんかには、浮遊霊が附着していることがある。

本には独特の思念が籠もっていて、さらに以前の持ち主の念が入っていることがある。

わたしなども沢山の本を所有しているが、これは凄いものです。

神仏へお経や祝詞をあげるんですが、これらの浮遊霊が喜んでいるのです。余程、居心地が良いのでしょう。

ですが、最近その辺に気づいたもので、どんどん整理していると、なんだかザワザワするのです。だから、そのモノたちに観念してもらうようにご供養しまして、鎮めてしまいました。

なかなかモノが捨てられない、なかなか本が整理できないなんていうのは、浮遊霊や貧乏神の仕業なのです。

浮遊霊ひいては貧乏の神に取り憑かれると、「いつかは使うだろう」とか言って処分できない。

しかし、その「いつか」と言うヤツは永遠に来ないのですよ。

あるいは「勿体無い」とか言い訳するのも、貧乏性であって貧乏神に通じます。

福の神は簡素がお好みなんです。

すべての神は一つに通じている。すなわち『天御中主太神(あめのみなかのぬしのおほかみ)』です。

宇宙の根源の太霊にして、すべての神、人間の元です。

真ん中を貫くのは、すべてこの太霊なのです。

だから、この神のお力が「スッと」通るようにしなければならない。

「御中(みなか)」って言うんだから、真ん中を貫いているのです。

真ん中が通じていれば、すべて通じるんです。そして本当の神は、正統的な努力を求めるのです。それなくして真の成果は望めないのです。

すべてスリムになれば、自然と通じる(亨る=とおる)のです。

さあ、浮遊霊を浄化してしまいましょう。清め祓へを実践しましょう!


川島金山

密教霊術の真髄【霊的な修道をする者の目指すべきこと】

 【霊的な修道をする者の目指すべきこと】



昨日、『幽魂安鎮秘詞』の全傳をお伝えすることができた。

この秘詞の修唱だけでも、あらゆる幽魂・霊魂を益することができる。

こういう秘伝を得ることができたのは、よほど功徳があるのだと思う。

大切なことは、運用の仕方や規則・法則をよく理解し学ぶことである。価値から考えれば、設定した伝授費用など大したものではない。はっきり言って、タダみたいなものだと思う。

法を修してゆく上で最も大切なことは、神・仏の前において謙虚であるということである。

自分の法力で霊魂を救うんだなどと考えるのは愚かなことである。あくまでもわたしたちは「取次役」だという自覚、これが大事である。

『慈悲心』『菩提心』『慈愛』をもつということ、これが霊的な修道をする者の目指すべきことだと、わたしは思う。

愛を持って、救われていない霊魂を助けてゆく。これが真髄だと思う。

わたしたちは、こういうことを人知れず行ってゆく。けっして生業(なりわい)にせず、あくまでも衆生に対する奉仕で行ってゆく。無償の心で行ってゆく。そういうことの実現のために、わたしは皆さんに教えているのである。よくこのことを理解してほしいと思う。

また、そういうことだけではなく、隣人や家族・知人にいたるまで、自分の環境の中で顕現している人々に対して、優しさをもって接することが大切である。

優しさは、忍耐でもある。そして、心から湧き出てくる慈悲心でもある。相手を受け入れて、いつも穏やかにいること。自分というものに、本当に自信があるから、微笑むことができる。そういう心底から来る慈愛をもつことが、わたしたちの追うべき姿であると思う。

じっと見てあげられる勇気。そっと助ける慈愛。こういう心をもって法の修道をしていただきたいと思う。

このことにおいて、世俗も修行も修道も関係がない。人間として、どうあるべきかということである。

愛の本質とは誠である、といってもよいであろう。(これがホントの『愛と誠』ですよ!)


改訂版 金山の説法【有暇具足が無限でないことを知るべし】

◎有暇具足が無限でないことを知るべし

このことを
 声を大にして言いたい。

人間、ご縁のあるときにやらなければダメなのである。

人というのは、命がまさに風前の灯であることを、理解していない場合が多い。

例えば、ここに貴重な書籍があるとする。わたしなどは、若年から本に関わっているから、この書は、こういう部分が貴重なのだということはよく知っている。しかし、その以前に何かを学んでいると、逆にその知識なりが障害になって、先入観なども含めて壁になってしまい、いつの間にか、そういう貴重書が世の中から消滅してしまうということがしばしばある。

そして今になって、収集したりしている。実に無駄骨のくだらないことだと思う。

先入観や必要のない知識を交えないで、平等冷静に判断することは中々至難の業だ。

昨日、わたしの実家の近所の女性が亡くなったことを母から聞いた。その方は、わたしの母とはご近所で仲の良い人だった。約10年前にわたしの実父が逝ったときに、わたしを励ましてくれた、とても気立てのよい、さっぱりした人だった。

その時のことを昨日のことのように思い出す。そのご婦人の子どたちは、私やわたしの兄弟とみな同級生で、旦那さんは好人物だったが、15年くらい前に亡くなっており、彼女は今年で70歳だったという。

10年前のわたしの実父の葬儀のときには、彼女が10年後に死ぬという事は想像がつかなかった。だが、現実には、こういうように時間は過去現在未来へと絶えまなく流れ、諸行は無常なのである。

形あるものは必ず滅してゆくのである。

時間には限りがあり、すべては無常であることを、よく認識しなければならない。わたしのもとに来ている門人はこのことを、よくよく自覚しなさい。

時間は過ぎ去り、みんな順次あの世に旅立つ。自分も周囲もどんどん変化してゆくのだ。

ご縁のあるときに、やれるときに、やるべきときにやらなければ、修行なんて出来やしないのである。

死の直前に後悔しても、やろうとしても間にあわない。みんな『有暇具足』の貴重なことを知れ。人間として生まれた幸運を心から自覚するのだ。

一日一日、やるべきことをやってゆく。

分らないことがあれば、自分勝手な判断をせずに、虚心坦懐になって師匠に教えを仰ぎ、拝聴すべし。

そして師匠や法友に、依存(あまえて)して、自分のどうにもならない感情を吐き出し、ぶつけてはならない。そういうのは、師匠や法友を『ゴミ箱にしている』ということに等しいのである。

でんでんででんでん♪武勇伝♪武勇伝♪【摂受と折伏について】

武勇伝【摂受と折伏について】

あなたは仏教の教導の方法に、摂受と折伏があるのをご存知か?

この導き方を明確にしているのは日本の仏教である。
しかしながら、仏教の開祖である釈尊の言行にも散見している。人間には多種多様なあり方があるのでしょうが、教導することを追求すると、2つの方法があるということである。

摂受と折伏の典拠は、「大日経」や「勝鬘経(しょうまんきょう)」にある。「勝鬘経」は聖徳太子が国家鎮護の三経の一つとして示したものである。

「勝鬘経」では「我得力時。於彼処見此衆生。応折伏者而折伏之。応摂受者而摂受之。何以故。以折伏摂受故令法久住」と説く。

折伏(しゃくぶく)とは相手の間違いを厳しく責めて「破折屈伏(はしゃくくっぷく)」させることである。「強情我慢」の角を折るのである。鼻っ柱を折るようなものだ。この教導は「智慧の門」であり、密教的には不動明王のお姿ということになろう。憤怒の智慧の炎を背負うたホトケのお姿だ。

摂受(しょうじゅ)は相手の間違いをいったん容認して、穏やかに説得しその間違いを正していくことをいう。悪人を折伏し善人を摂受するというのである。この方法は観音菩薩やターラ菩薩の慈悲の相で表すことができる。すなわち「慈悲の門」である。

この二門は仏道の大綱であるとされ、くり返すが「折伏を智慧門」、「摂受を慈悲門」に配すのである。

殊に立正大師;日蓮聖人は、折伏を主に教導の方法として推し進めた。日蓮在世の当時、日本国を謗法(ぼうほう)、)と定め、聖人は著書;開目抄(かいもくしょう)の中で「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす、安楽行品(あんらくぎょうぼん)の如し。邪智謗法の者多き時は折伏を前とす、常不軽品(じょうふきょうぼん)の如し」と記し、教導方法を明確に定めた。

(※「謗法(ぼうほう)」とは、誹謗正法(ひぼうしょうぼう)の略語で正しい法を謗る(そしる)ことをいうのである。「法華経安楽行品(あんらくぎょうぼん)第14」「法華経常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつぼん)第20」が正確である。)

もう随分と経ってしまったが、20歳頃のことだ。大雪の降る日の出来事だった。

その前夜、親戚のTから電話があった。彼女は従兄弟であり、5歳年長だった。大変賢い人であり、電話など一度も無かった。

話を聞いてみると、明日『仏教セミナー』があるから来てくれないかというのだ。

わたしは心に頷くところがあり、「ははん、これはS学会による折伏だな」と直感した。そこで期するところあり、わたくしは品川区の指定の場所まで出かけた。広い邸宅に案内されて、そこの家主と思われるオヤジが偉そうに出てきた。そして次々に信者が集まってきた。15〜16人あるいはそれ以上いたかも知れない。完全に包囲された格好だ。

案の定、折伏だった。S学会は、時代遅れの独善的な解釈で、折伏をする団体である。

わたしもいずれはこういう時が来ると思っていたので、S学会の歴史やあり方、法華経信奉者特有の「五時教判」は研究していた。また「折伏経典」という独自のものがあるので、それも極秘に入手して研究していた。

彼らの論法は予測通りであった。それ故にわたしのほうは、難なく彼らの屁理屈・暴論をかわすことができた。その上、彼らは子供だと小馬鹿にしていた相手にケチョンケチョンに、蹴散らかされたわけで、件(くだん)のオヤジも、まさしくホウホウの体(てい)であった。

すると或る男性が『折伏経典(しゃくぶくきょうてん)』を持ち出してきたので、すかさずこう言った。「こちらは、20歳そこそこのガキ(子供)で、そのガキが丸腰なのに、そっちは折伏経典ですか、では問うが、折伏というものの典拠を述べてください。日蓮聖人は折伏について、どの著作で、どのように述べているんですか?それが今すぐ答えられるのなら、それ(折伏経典)を使ってもいいですよ」と。

そういうと、誰も何も言わなくなったので、まあわたしの話を聞いてくださいと言って、仏教の正確な歴史を述べた。そして自分の考える信仰のあり方や、わたし自身の法華経論をも述べた。

用をたすために少しばかり席を立つと、その連中はこういったそうである。「あの若者はすごい。そのへんの大学の先生よりも、ものを知っている。ほんとうに驚いた」と。

わたしが再び座に着くと、彼らは諦めた口調で、今度は本部から教学のできる人を呼ぶからまた来てくれと。わたしは笑ってこう言った。「みなさんご熱心ですね。でも大勢で一人をやっつけるのは趣味としては悪趣味ですよ。まずい食べ物を食べさせるお店にお金を払ってゆきますか?誰もゆきませんよね。まずくて不愉快だからです。だからわたしはここには来ません。おいしいと思う方だけくればいいんですよ」

そこにいた大人たちは全員、あいた口が塞がらないという体であった。

大雪の帰り道、従兄弟のTは言った。「お願いTKちゃん、入会して」と。わたしは彼女のために、こういった。「Tさん、信仰というものは頼まれて入るものじゃないよね。そのことは貴方もご存知でしょう。この大雪の中、わたしは親戚の貴方が仏教セミナーがあるというから来た。でも結局は折伏をやられにきた。このわたしの気持ちがわかりますか。貴方が自分の宗教がすばらしいと言うのなら、どうして近くにもあるから聞いてみて、というように言えないのですか?わたしを入会させると何か自分のポイントでも上がるんですか?宗教を説くというのはそういうことではないでしょう。二度と来ませんからね」。情に於いて忍びなく、彼女の秘められた懊悩が分かるだけに辛かった。

補足しますと、S学会の連中との問答の時に、わたしは「赤いジャンパー」を着ました。身体を大きく見せるために。正座になり、背筋を伸ばし、手を卓袱台のうえの広げて。目線、声の大きさも気をつけて。これが、でんでんででんでん♪武勇伝♪武勇伝♪なのかなぁーとは思いますが・・・。

(※『でんでんででんでん♪武勇伝♪武勇伝♪』は若手のお笑い芸人オリエンタルラジオのネタのひとつ『武勇伝』のときの、始めと終わりの歌です(笑))


金山の説法【神通力について考える(2)】

神通力・神通について考える(2)

帰依仏 帰依法 帰依僧

昨日は、三明六通について述べた。もう少し説明しよう。

漏尽通以外の神通力をチベットでは、ンゴンシュという。主体と客体の再統合を通じて5つの『高度の知覚』が出てくる。これは、それ自体を追求するべきものではない。そうあらゆるラマ(上師)が述べている。

大切なことは、一切衆生も含めた全ての対象が、自分のエネルギーの顕現だということを理解し、さらに実践して、体得することである。法=教えを実現するとは、こういうことを言うのである。

二元論に入っている、妄想顛倒している思考で、空中浮揚するなどという考えは、カルト的な考え方である。そんなことよりも、慈悲を実践することだ。

神通という言葉には別の側面もある。

『至誠神通』あるいは『神通在信不信(神通は信と不信とに在り)』という先師先達の言葉があるが、神に通じる、自分の信仰心が神にまで通じるという意味での、神通という語義もあるのである。

この場合は、『信』であり、『義』の心をもって誠をつくすことを言っている。神祇のほうでは『義の心』であり、仏仙のほうでは『大菩提心(慈悲心)』ということになる。どちらも同じものを或る側面から表現しているにすぎない。

大切なことは、謙虚であり、誰に対しても平等であることだ。人のえり好みや好き嫌いでの思考・判断があるうちは、菩提心の真っ逆さまということである。

例えば、わたくしが『火の禅定法』を教える。すると1回か2回で「わかった」と言い出すのである。本当であろうか?

わたくしはこの種の発言に疑問を呈する。何故かというと、火の禅定なり、『火界定』というのは、不動護摩法をすくなくとも300回以上やっていなければ感得できないし、加行すらやったこともないものが、言える筈がないのである。

わたしが教えているのは、火の禅定のための基礎法であって、それそのものではない。第一、火界定というものが、禅定のなかでどういう境地か分かっているのだろうか?非常に明確なのである。何となく火炎の観想ができたくらいで、そう発言しているのかもしれないが、そういうのは法や師匠を軽んじている発言である。

そのような安易な発言を反省するべきである。それをしないと先が出てこないし、進歩がない。自戒を促すものである。

神通・神通力という場合、その発現の(基礎の)心は、『義の心』であり、『菩提心=慈悲』だということを、諸兄は腹の底まで入れておいていただきたい。

自分の仲間、法友を平等心(逆が好き嫌いの心)・慈悲心で見ることができないような者に、道などないし、神通などあり得ない。

(了)

川島金山 謹書
 

金山の説法【神通力について考える(1)】

神通力および神通について考える(1)

帰依仏 帰依法 帰依僧

修行を進めてゆくと、ひとつの神通力が備わってくる。

法華経に於いては六大神通力という。仏教では『三明六通』という言葉があるが、主体になるのは、『三明』と言われる能力(神通力)である。

『三明』とは、漏尽通(ろじんつう)、宿命通(しゅくみょうつう)、天眼通(てんげんつう)のことである。漏尽智(ろじんち)、宿命智(しゅくみょうち)、天眼智(てんげんち)ということもある。通力としての名称と智慧の名称があるわけだ。

『三明』で主体になるのは、『漏尽智(ろじんち)』である。『漏』とは煩悩の異名であり、つまり煩悩を滅尽(めつじん)するホトケの智慧をいうのである。

宿命智のよって過去を知り、常見という邪見を断つ。天眼智によって未来を知り、断見という邪見を断つ。最後に漏尽智でもって煩悩を断滅してホトケとなるのである。

仏(ホトケ)とは、輪廻から完全に解放(解脱)された者をいう。

だから三明が解脱の智慧なのである。修行者がこれを体得するべく修行してゆくことは、必ずしも邪見ではない。しっかりとした帰依と大菩提心(大慈悲心)が確立されているのならば、逆に必要なことである。

いや、菩薩ならば三明だけなくその他の三神通も必要な能力である。

三明以外の神通力は、他心通(たしんつう)、天耳通(てんにつう)、神足通(じんそくつう)である。

要するに神通力というのは、主体と客体を一味にした境地に生ずるものであり、漏尽通以外のものは、副次的なものだとも言われている。

身(肉体)・口(言葉)・意(こころ)という三つの境界をそれぞれ浄化してゆくのが、修行の根本だが、その三つの領域に於いて『一味』になると出てくるのが、先の三明以外の神通力である。(※一味とは、主体と客体が全く統合されている境地をいう。ロチックともいう。)

他心通は、意(い)。天耳通は、口(く)。神足通は身(しん)という具合に当てはまる。

お釈迦様は三種の神変といって、説法神変、教誡神変、神足神変ということをしばしば行われた。それらを駆使して教化したのである。

説法神変は天耳通、教誡神変は他心通、神足神変は神足通というように分類される。

わたしなども多少はこういう能力を護持している。講座講義の時などに、声なき声を聞く、これ天耳通、『接心』個人指導で心に触れる、これ他心宿命通、滝中において水量を変化させ、金剛の気合でもって、同行者の身体に特別な響きを与える、これ神足通に分類されるものである。このように教化するには、必要なことなのである。

だが、神通力を駆使するのは教化して衆生を導く時だけである。

凡夫のままの二元論にズブズブに入っていて、さらに法友だろうが何だろうが、(人間の)好き嫌いで判断する。そういう悪いクセをいかんなく発揮しているものに、神通力云々など言う資格はないのである。『増上慢(ぞうじょうまん)』も甚だしい。そんな人間には、神通力の『じ』も決して身につかないであろう。

空を飛ぶような大神通力を体得して、眼にもの見せてやる、というような馬鹿げたことを師であるわたくしの前で平気でのたまう大バカ者も時々いる。

いままではそういう馬鹿なことを言っていても、馬耳東風に聞き流して相手にすらしなかった。しかし今は違う。仏法の師としてのわたしはこういう発言を放置しておくわけにはいかない。

また、師匠を推し量ったり、疑問を呈するなど、言語道断である。こういうことに身に覚えのあるものは、懺悔しなさい。そんなのでは決して解脱はできません。道を教えていただく師匠に対して、タメ口をきいたり、生意気を言ったり、推し量るなど、すべて悪業として最悪です。解脱の徳の反対であることを知らないといけない。

本来は、師に対して座る場所から、戸の締め方、話す時の態度、先生に眼を合わせることの是非など、師に対する作法は厳密にある。

平気でわけのわからん妄想を口にする。今後はこういうことは全て厳禁。

何人たりとも二度同じ事を繰り返したら、即刻に破門・出入禁止とします。

(つづく)

金山の説法【真の仏縁を得る方法とは】

如何にして真の仏縁を得るのか?

帰依仏 帰依法 帰依僧

現在『出離』の解説を行っているが、このことの理解と修行を経ずして、仏教や密教を修行したことにはならない。

たとえ神祇のほうの修道をしても、ものにはならない。いつも言っている通り、正神界からの転肉者は別であるが・・・。

人間として生まれたからには、人間としての修道・修行の過程というものはあるのである。

人間としてのあり方のなかで、最高度のあり方は菩薩になることであろう。生きとし生けるもの全てに自分の積んだ功徳を回向し、一人残らず衆生が済度されるまで、自分は涅槃に入ることができるのに入らない、それが菩薩という存在である。

我々は五毒(貪・瞋・痴・慢・疑)にまみれており、自我意識の欲貪(エゴ)に心は満たされている。そんな存在が、菩薩のような心には成れないのである。そう思っていると自認するものがあるならば、それは増上慢、戯論妄想である。

我々は菩薩の『ぼ』の字にも成っていないのである。

では、菩薩の出発点はどこからはじまるのか?

それは『帰依』『四つの出離』『発菩提心』の修行である。この基礎を充分に修行したのならば、輪廻から解放されることは半ば出来たも同然である。

修行の要諦は、『帰依・菩提心』『三昧(正行の修行)』『回向』にあるのだ。この三つのない修行はあり得ない。

これらは一言で言って『信心』である。弘法大師は、三種の菩提心を説いており、この総体を『信心』なのだと言われている。帰依し信心が完成したら、すでに『成仏』しているというのである。

輪廻に於いて、唯一の護符は『信心(帰依・菩提心・三昧耶戒)』である。これが身に備わっていることを真の仏縁というのである。

このことは仏教・密教の修行に於いて最高の口伝であり、秘訣である。本当に真剣に修行に打ち込むよりほか、これを体得することはできない。これができれば後は自在であり、時間的な問題だけである。

ここまできてはじめて菩薩の『ぼ』の字を目指しますと言えるのである。

菩薩になるくらいでなければ、最高正神界に至ることはできない。

真の仏縁とは何か?とのご質問が出たので言えるところまでは述べた。

昨日、2名のことについて述べたが、それとても他の方々と紙一重なのである。全員、『出離』の修行をひたすら行うようにしていただきたい。

名古屋在住のAさんが3月31日に来院されたが、わたくしは説法座を用意し、如法衣を着して、帰依を与え、『出離』の講義をした。その上で、個人指導をしたのである。もちろん例外なく言うべきことは言わせていただいた。要は、たった2時間弱のために、新幹線に乗って来られたという事実である。

教えを乞うというのはこういう態度をいうのである。これなくして教えの扉は開かれない。

金山の説法【正しく理解し実践することの難しさ】

帰依仏 帰依法 帰依僧

先月25日に、個人指導および『出離』解説をした。そして実践の方法を教授した。

その後、何ら問題が無いようであり、一つの質問もこない。

わたくしに学ぶ修行者たちは出来が良く、上品・上根の修行者だから、一度聞いただけで全て了解してしまう、そういう一切智者なのであろうか?

仏教では、上品・上根とは非常に能力の優れている修行者のことをいう。

仏の教えを述べる場合、必ず『勧請・随喜』というものがなければいけない。できれば『七つの項目』が整えられる必要がある。

こういうことも一切智だから既に分かっているのであろうか?

こうなってくると、師匠というものは必要がないのではないか?

はじめから、一切すべてが分かっているのだから・・・。

率直に言うと、誰一人も真の仏縁を有しているものはおらなかった。

わずかにT君だけが、梵の行いを有している。あとわずかに有るのは、Uさんに可能性がある。その2名も輪廻の中では、風前の灯の如くである。

このことは、わたくしにとって大変にショックな出来事だった。

実際のところは、思い違い、怠り、小乗、知ったかぶり、増上慢、妄想、自分のことばかり・・・等々。真実は、こういう具合である。まさに末世の衆生である。

一番よくないのは、師と対等であるかのように知ったかぶりをすること。明言しておくけれども、そういうのは100年経ってもわたくしと同等の境地にすら到達できませんし、本当に教える気が失せてゆく。

わたくしとしては、心から自分より才徳のあるものを求めている。わたしを踏み越えて大成する人材の出現を念願している。だが、そんなことは及びもつかない状況のようである。

だから、自分の修行だけをしたほうが良いということで、予定すら出さないでいる。今までだって、わたしは一人で修行してきたのである。

仲間ができたからといって、妥協して言いたいことも言わなくなるほど、わたくしは老いてはいない。誰とも徒党を組まないことをもって、誇りとしている。

一つ言っておくと、『接心』というものは、あなた方が想像もできないほど色々なことが分かるものです。たったの20分だったとしても・・・。

とにかく『増上慢』を起こさず、正しい理解と正しい実践で仏縁を深めてほしいと願うものです。あなた自身のために。

菩薩の心、菩薩の家系にすら入っていないのに、片鱗さえないのに、途方も無いことを口にしないこと。上のこと全て厳しく戒めておきます。


川島金山 厳書

仏の自然智への道【出離の法を説く・果たして勧請はあるか?】

神祇の霊界(正神界)から来た者でなければ、今生では先ず、仏教・密教から取り組むのがよい。

仏教の一宗派の密教をやって、取り憑かれる者があるが、そういう場合は大抵が憑霊体質である。また密教の修行の仕方が悪いのである。

密教の修行は、仏教の中でも特に専門的であり、相応の成果を得るには、経典や論書に精通していなければならない。学び方にも手順がある。わたしが或る論書をブログで紹介する。すると勝手に書籍を図書館で借りたり、購入したりして、独自に理解してゆく。

ひとつ聞きたい、こういう学び方が仏法を学ぶというあり方だと、皆さんは思うか?

わたくしからの答えを言おう。答えは、否・不可である。

一度勝手な理解をすると、それが解けなくなる。本当の法を理解する障害になるのである。心の連続体が傷つくと言ったらよいのか。

論書を紐解くことですら、そうなのであるから、密教を修行しようなどというのは、夢のまた夢なのである。だが、わたくしは前世の誓願によって、法を縁あるものに与えようとする。

平成24年3月25日は、わたくしにとって記念すべき日になる。何故かと言うと、独立した仏者として、はじめて何にもとらわれず、『法(先ずは出離から)』を説くからである。

これはわたくしの仏者として教化育成の始まりなのである。言わば世に宣言した日である。

本当の仏の縁を全力で与えるのである。ご縁がなければ道を成すことは難しい。『縁なき衆生は度し難い』のである。この縁は、仏縁だけでなくて、そのまま正神界につながっているものである。

法を転ずるには、『勧請』が必要である。今日は初の『個人指導日』なのであるが、その前に『法(出離)』を説こうと思う。

皆さんに『勧請』がなければ、少しばかりのお話で、すぐに個人面談指導に入ろうと思う。仏法を説く為には、聞く側に『請う』ということがなければならないのである。

果たして勧請がありや否や! 

小説 八宗綱要(第30話)【叡山論議・即身成仏の義】

即ちこの身、仏に成れりとは如何に

翌朝、最澄にも空海にも重要な用むきがあった。二人とも大学匠、一世の師表であるから、お互いの立場や妥協の仕方は良く知っている。求道者としての見解・意見は具にある。しかし、国家の権力者や規制の仏教界勢力があるなかに於いては、純粋無垢ではあり得ない。ある種の駆け引きが必要なのだった。

最澄はどうしても密教の法脈を欲していたし、空海にしても体得した密蔵の教えを天下国家に統合する道を模索していたのである。お互いに得難いものを持っていたわけである。それを半ば得てしまえば、その関係が崩れるのは目に見えている。だが、いまはお互いが必要なのである。

「・・・空海殿、よくおやすみになられましたかな?この叡山の済んだ空気は聊かの甘露の如きものでおざったのでないか?」
最澄は未だ本山を持たない空海に皮肉と期待をこめて言う。

「ほんとうに良い環境です。法師提唱の『止観の行』をば、修行するにはこのような山岳がよいのでしょう」
空海は何事も素直であり、それは誰も底を見たことのない湖のような性格・性質であった。要するに底が見えないのである。

「そう拙僧は本日、貴とい方にご指名をうけておりゆかねばならなくなりました。論議は次回として、挨拶もそこそこに出かけねばなりません。この通り非礼をお詫びします。つきましては、今日の談義は弟子がやりますのでご了解を・・・」

「そうでございましたか。わたくしも楽しみにしておりましたが、当方にも都合が生じ、弟子に託そうかと思っておったところです。今後の交流の要旨は今回で得心できようかと存じます」

最澄はこの談義、空海に分があることは分かっていたので、時間の無い中、一言だけ言った。
「空海殿、貴殿の提唱する、一乗成仏・速疾成仏と、拙僧の説く『円密一致』に優劣がありや。あればどこなのかお伺いしたい・・・」

空海は「これいよいよ大変なことになった」と思った。立ち話で済むようなものではない。少しの説明で委曲を尽くせる筈がない。それを知っていて最澄は自らの出発直前に、このことを口にした。それは自分のいないところで起きることを予測してのことだった。やはり最澄もすごい人なのである。

「あっははは、最澄殿もお人がわるい。この空海を困らせようと言うのでしょうか?そのような深遠な問いに仏祖(ぶっそ・お釈迦様)でも一言で応答できますまい。要は、お互いの論旨は論旨として、あたらしい平安京の仏教興隆を目指している、このことが教義を越えた教義なのではないでしょうか?」

最澄はすかさず、年下の更に無名の空海の手を握って
「空海殿、信じますぞ。今後の交流に期待しております」
と言った。
だが、おそらくは自分の弟子は空海の持つ心と知識の大海に多大な影響を受けるだろうな、とも思っていた。

「おお、最澄殿、一言だけ。我が師の教えを煎じ詰めれば『即身成仏の義・即ちこの身、仏に成れり』ということでおざる」

最澄は唖然とした。
「『即ちこの身、仏に成れり』・・・!?」
しかし、最澄は(髪の毛はないけれども)、後ろ髪ひかれる思いで、皇族貴族の居る所に急いで向かった・・・。


※この物語は仏教的小説であります。『八宗綱要』を元にして、清涼殿に於ける帝の御前での仏教論議を通じて仏教の教理を理解していただく為に書き下ろしたものです
※歴史的な事実によらずに書いていることを諒とされたい。
※第30話よりタイトルが解説『八宗綱要』から小説『八宗綱要』に変わりました。
※小説に説明は要らないのですが一言。この小説には修行の為のヒントが隠されています。読者がそれを解き実践することを希望しています。著者識

 


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