上載の本は、ご存知アニメ「北斗の拳」の語録集である。この本と類書数巻を赤塚先生から、ご寄贈頂いた。由縁を申せば、わたくしが講座・講義の中で、度々「北斗の拳」のセリフを言って、皆さんを笑わせるからである。
上記の本の119ページにおもしろい記述があった。その記述に出会ったので、こうして述べることにしたのである。
今を遡ること10数年前、品川区の島津山の高級住宅街にYさんという100歳になる、おじいちゃんがいた。100歳になっても桜田通りの坂などスタスタと歩く元気なお方だった。
時々、この老翁のところに施術にいった。記憶力も抜群で、昔のことをすべて憶えている。お話のはじめはいつも、「わたしゃね犬養首相が暗殺された5・15事件の時に、隣の建物に居てね、外に出たら兵隊さんがいて、あんたたち危ないから、すぐにお帰りなさいと言われ、次の日に埼玉で新聞にて事実を知った・・・」なのだった。
話は現代まで続いて、しばし沈黙。わたくしが、「Yさんお若い頃は、どうしてたんですか?」と聞くと、「わたしゃね犬養首相が暗殺された5・15事件の時に、隣の建物に居てね・・・」とリピートするのであった。
だが、ただ一度だけ違うお話があった。
彼は、太平洋戦争(大東亜戦争)の当時、「輸卒(ゆそつ)」だったというのである。いまの人たちには、この意味が分からないと思う。わたくしは「それは大変な苦労をしましたね」とだけ言った。
「輸卒」とは、「輜重(しちょう)」と共に、兵隊・兵卒ではなく、言わば旧日本軍に於いて雑用係なのであった。「丙種」といって、徴兵検査に於いて、廃人同様の者もいたが、「輸卒」は戦地その他において、とにかく運搬係りの人夫みたいなものだった。「輜重」は、後方援助における物資調達・雑用係りだったのである。まともに国民としての義務を果たしていない。そういうような差別を受けていた存在なのであった。
件(くだん)の老翁は「しちょう輸卒が・・・ならば・・・・・トリのうち」と詠んだのであった。聞き返すこともなく話は進んだ。はじめは記憶していたと思ったが、いつの間にか忘れてしまった。
時折、思い出しては、思い出そうとするがどうしても出てこない。1週間ほど前に、またまた思い出した。すると昨日、「北斗の拳語録」に
「輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば 蝶々蜻蛉(ちょうちょう とんぼ)も鳥のうち」という詞が出ていて、あっこれだ!ということになったわけである。すなわち同書の119ページに掲載されている。
この詞の長いバージョンもある。次のようなものだ。「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々蜻蛉も鳥のうち 焼いた魚が泳ぎだし 絵に描くダルマにゃ手足出て 電信柱に花が咲く」
昔の日本の差別。ひどいもんですね。こういう点は日本国・日本人のほんとうに良くない点です。他を認めないという「島国根性」なのです。自信が無いから、差別するのでしょう。時代性もあるけれども、元々日本人にはこういう点があるのだと思う。皆さんはどう思うか?
最近、こういうようなことが多くある。思ったことがすぐに「現出」「顕現」するということが。
おそらくは偶然ではないと思うのだ。チベットの教えにゾクチェンというものがある。この教えのなかでは、リクパ(原初の境地)ということをいう。主体と客体はもともと一つであり、もとから完成している。何一つ変えたり無くしたりする必要が無いと。だから、その大本の「リクパ」を悟ればいいのだと。
「リクパ」を明知と訳すときがあるけれども、それでは正しいニュアンスが伝わらない。原初の境地はいいけれども、意味が伝わらない。要するに「リクパ」としか言いようがないのである。
こういうのを「不翻(ふほん)」という。仏典(仏教経典)に古来から「五種不翻(ごしゅふほん)」というものあり、訳すことが不可能な言葉を定めていたのである。これと同じであろう。
だが、その働きや意味を、わたくし自身の体験や経験から、「霊魂(直霊)からの顕現」ということが言えるのではないかと思う。
霊止(ひと)の「一霊」の教えは日本にしかなく、すべてがここからの「顕現」であるのは、間違いのないことなのである。この教えは、ずうーと秘匿されてきた。いまこそ、地球上に広めるべき時ではないか?
「滝行禊ぎ法」「滝行気合法」には、主体客体を「一」にする、そういう境地を得せしめる威力があるということである。なぜなら、霊止(ヒト・人間)の存在の大本である「霊魂を磨く」のであるから。
チベットでは、こういう境地を「ミヨーワ」「ルンドゥプ」などという。しかし、日本の地で日本人が、外国の教え(技法)のみを以って、こういう境地を得ることはできない。このことを多くの人々が分かっていないのである。
チベット教の信奉者たち、この意味がわかりますか?(笑
お滝そのものが、御神体であるという行場にて修道できれば、この上ない。禊ぎの浄化行によって急速に「霊魂」が磨かれ、速疾(そくしつ・とても速いこと)に、思いが「顕現する」。こういうことが日常においても増えてくるわけである。