2月9日(水)第3回スカイプ講座を行った。
はじめの20分間接続がうまく行かず、皆さんにはご迷惑をおかけした。しかし、スタッフも聴講者の方々も協力しながら、様々な問題を克服していると思う。忍耐努力をして皆の力を結集して事を為すというのは実に清々しい。
習慣といい、慣れるというけれども、おなじ「なれ」でも、狎れはよくない。けもの偏の「狎れ」はダラシないという意味を多分に含んでいる。
強情・固執・頑迷もよくない。「春風(しゅんぷう)をもって人に接し、秋霜(しゅうそう)をもって自らを粛(つつし)む」というではないか。
霊学といっても、なにも特別なことではない。己の「霊魂」の行方を知るということなのだから。日本にはこの教えが存在する。多くの先達が遺しておいてくれたのである。何とありがたいことだろう。
霊魂を「たましひ」と読む。魂は「たま」、霊は「ひ」。霊は「一霊」、魂は「三魂(四魂)」。すなわち「一霊四魂」とも「四魂一霊」ともいう。一霊の働きが四魂のなかにある。四魂のなかには、一霊がそれぞれあるとも言える。
霊は「ヒ」と読む。霊が止(ト)まるから「ヒト」なのである。
その一霊は、天の大神から来る。根本神の天御中主大神の霊が、天津神から国津神に下賜され、産土神を通して、生まれた瞬間に人間に宿る。生まれる以前は、両親からの「魄霊」のみだ。生まれた時に「魂霊」を授かるのだ。
人間には、神の側面と、業の塊の側面が、生まれたときから内側にあるのである。
「霊魂」に付着した「ケガレ」や「業」を、祓い清めるのが、霊学の修道ということになる。魂の働きは、つまり心の働きだ。霊学の根本は心を浄めることを以って本と為すゆえんである。
ありがたいことに人間の魂には、反省する心が備わっている。自らを清浄にしようという心があるのである。これを「清浄心」という。これがあるからこそ、ヒトは「霊止」であることを自覚できるのである。
反省すべきことが生じ、恥ずかしいと思う。裏を返せば、清浄心の働きだ。これあればこそ、魂は清められるのである。大切なことは、どう反省するのか、どこを反省するのかということである。
見当違いの反省では、折角の機会を逃してしまう。魂の修行にはそういうことがつきまとう。勝手な判断をしないように、先達に聞くことが大切だ。まして慈悲の眦(まなじり)を開いている、己達明法の導師の指導は仰ぐべき価値があると思うものである。
必ず道は開く(天らく)!